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ポジショナリティ、変わりえること

訳あって、沖縄と日本との関係性について、ポジショナリティを重視した文章をいくつか読んでいる。こうでもなければ読まないであろうと思いつつも、やはり読んでいて疲弊するものがある。それは精神的にもだし、どんよりと圧し掛かるようにして身体的にも感じるものだ。

読んでいると、どうしてこのポジショナリティを重視する人たちの論に自分が納得できず、惹かれないのかが、よくわかってくる。特に、惹かれない理由というのが(納得できないのはだいぶ前にわかっている)。ポジショナリティという考え方の重要性はわかるし、それらは無視すればいいというものではない。けれども、それらの文章は、あまりにも内に閉じている。

それらの文章が糾弾型の文体であるから、問題なのではない(糾弾型の文体であろうと、素晴らしい文章はいくらでもある)。問題は、言葉が他者に開かれたものではないからだ。言葉から、新たな世界や地平がなにも見えないからだ。

そう、疲弊するのは、そうした文章に触れれば触れるほど、自分がいまの自分から変容可能な存在であり、また自分自身が複数性を生きているということが何も見えなくなっていくように感じる。そこでは、自分は日本人であるということ以外、なにもないかのように思えてくる。

そしてまた、決定的なことだと思うが、それらはあまりにも運動の現場から遠く離れすぎている。運動を絶対化するつもりも理想化するつもりもない。だが、そこにおいて生起していく関係性は、二項対立の図式で語られるほどには単純ではない。

この間、そんなことを考えていた。