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オッペンハイマーを見た。頭が痛い。

オッペンハイマーをみた。まだ頭が痛くて、混乱している。

『原爆は、降伏しない日本に戦争をやめさせる唯一の手段だった。これがなければ、もっと多くのアメリカ人と、日本人が死んでいた』高校時代にアメリカに留学していた頃、世界史の授業で先生が放った言葉と、作中に出てくる政府要人の言葉が重なる。

まだ頭の中で整理がついていないし、全てのメッセージを掴み切れたと言われるとそれとは程遠いのでこの作品の是非を言い切ることはできないけれど、少なくともこの作品は彼の伝記を描いた作品であるということを忘れてはいけない。物理学者としてのプライド、政治的・歴史的背景(冷戦を前にアメリカ、ロシアの技術的競争は語るまでもなく)とアメリカの信じる資本主義の存続、権力、彼自身の化学兵器を開発、使用するに至る葛藤。彼だけの視点でも、原爆を肯定するアメリカ側の視点だけでもない、ノーランの構成と映像技術、音楽や役者の演技が多視点で同時に作中のイベントを解釈できるようになっているのが、さすがだと思う。その一方で、その複数の解釈ができるという点が、見る方のある程度の耐性と忍耐力が求められる点は否めない。知識も、と付け加えたいが、それを補うのは製作側の責任だと私は思うので(この作品では映像と役者の演技力、音楽でその点はある程度達成されたと感じた)。

日本での公開がまだ未定とのこと、原爆を取り扱う作品ということで、そこは重ねての議論が求められると思うし、何より技術的にも政治的にも複雑な作品の翻訳にはなかなかの時間と専門性が必要なのではと感じる。話題のノーラン作品だからと大手を振って公開されなかったのは評価されるべきだと言えよう。一方で、HIROSHIMA, NAGASAKIの単語、過去の日本での歴史(平和)学習を通じて見聞きしたことが作中に現れるとき(ネタバレを含んでしまうのでぼやかしております)、教えられてきた(日本から見た)平和の姿とそれを壊す惨劇が蘇り、吐き気につながるような嫌悪感と心の奥を突かれて胸が苦しくなる瞬間は忘れられない。この作品を国外の人はどう見るのか、そんな客観性を持つという自分の意志は正直とうに失ってしまうほど、日本人としてパーソナルに自分の経験と結びつけて考えてしまう。これを平和学習の賜物と言ってしまうこともできるのだろうが。

英語で見たこともあって、言語的な難易度も存在した。ネットフリックスシリーズのラブコメなんかで困ることはない英語力だけども、特に物理用語、法定用語、文脈的には、歴史、政治も絡まり、さらにノーラン独特の時間軸の往復が重なると(むしろ字幕があっても)大混乱である。3時間もの間、ストーリーとキャラクターを追って、日本の歴史を少し頭に浮かべているだけで精一杯であった。

まだまだ細やかな理解が追いついていないし、この後数日はオッペンハイマーの記事を読み漁ることになるだろうけど、とりあえず興奮してベットタイムをとうに過ぎてしまったので、これを閉じてタバコを吸って今夜は眠ることにする。

読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートで、朝にお気に入りのカフェでコーヒーをいただいて、少し本を読んで、それから新しいnoteを書こうと思います。