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会いに行くよ、ヤックルに乗って。

2024年7月28日(日)

私は先月からある離島に住みながら、大学とゲストハウスの仕事とNGOでのインターンを両立している。

ここではよく「貨幣経済について」や「日本の現在の安全保障について」、「人生で大切にしてるものはなにか」という話題で議論する。
そして私はそういった疑問を投げかけたり投げかけられたりして、色んな人の意見を聞き、自分の考えを再構築することが好きだ。

今思えば私は昔から議論するのが好きだったように思う。
小学3年生くらいの時に私はある女の子とよく意見がぶつかり合っていた。
その様子を見た先生や周りの同級生たちは、私たちに「喧嘩しないで!」と言った。
しかし私たちはいつも「これは喧嘩じゃない!」と反論した。

周りからするとそれは小3の女の子同士のつまらない喧嘩に見えたかもしれないが、私たちにとってそれは対等な立場でお互いの意見を言い合う議論の時間だった。

そして私たちの大切な議論が「喧嘩」という単純で雑な言葉で片付けられて会話を強制終了されたように、大人の世界でも議論の場が消失されることが起きているのではないだろうか。

なにか疑問を持った時にそれについて質問したり、違う意見を言ったりすると、「喧嘩を売られた」「否定された」と思う人は一定数いるだろう。
それが年上の人や立場が上の人であると言う側は更に言いづらく、言われた側は「プライドを傷つけられた」「顔に泥を塗られた」とも思うかもしれない。
(そもそも、人はただ役割が違うだけで上も下もないというのが私の考えだ。)

しかし考えてみて欲しい。
そもそも「否定」と「批判」は違う。
「否定」とは、そうではないと打ち消すことや非として認めないことであり、主観的である。
「批判」とは、物事に検討を加えて判定・評価することであり、客観的である。

東京都知事選の際に私はインスタであるリールを見た。
それはただひたすらに「エンド百合子」(小池百合子)と言いながら踊っている動画だった。
これはなんの根拠も検討もなく他者をひたすらに否定しているだけだ。
その動画には「なぜ小池氏が再選するべきではない」と考えるのか、「何を根拠にエンド百合子と言っているのか」が全く含まれていない。

ただ相手を否定し攻撃してその先になにがあるだろう。これは全くもって建設的でも客観的でもないただの悪口だ。
「エンド百合子」と主張するのであれば、批判的思考を持ち自分の考えの根拠を提示すべきだ。

これを読んでくれたみなさんには是非ただの否定的な悪口ではなく、批判的思考を持って世の中の疑問や違和感を探求して欲しい。

最後に、もののけ姫の後半のサンとアシタカのセリフを紹介する。

サン「アシタカは好きだけど、人間を許すことは出来ない。」
アシタカ「サンは森で、私はタタラ場で生きよう。共に生きよう。会いに行くよヤックルに乗って。」

共生とは何かがこのセリフに集約されている。
どこまでいっても結局「私は私」で「人は人」である。
「私」の考えや大切にしているものを「人」に押し付けたり、押し付けられたりするのでは対立と分断が深まるだけで、本当の意味での平和は訪れない。
選んだ道が違っても、遠い場所に住んでいても、共に生きることはできる。

自分と相手を寛容し尊敬する。
それが愛だと思う。

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