見出し画像

近頃、流浪人の夏

日記を書こうとするとネガティブなことばかり書いてしまって、それがストレス発散にはなっているのだけど、それでいいのかなとも思ったりする。私の周りには思っていたより日記をきちんと書いている人がたくさんいて感心した。私はいつも三日坊主で終わってしまうから。

その時の自分が何を考え感じていたかを振り返れるから、日記を書くのが好きだと誰かが言っていた。人は簡単には変わらないと言うけれど、細胞が時間をかけて生まれ変わっていくように、私が世界を見るレンズも、目に見えない速度で毎日少しずつ変わっているのだ。その時の自分にしか見えない世界をどこかに書き留めておけるなら、それはとっても素敵なことだと思う。

東京を出て、関西に来た。実家を出て東京に着いたのが一週間前のことで、これから関西に向かうというのに、たっぷりもらった大事なお小遣いはすでにほとんど底をついてしまった。まだ目の開いていない起きたてほやほやの友人に見送られて、かんかん照りの朝、やけに重たいキャリーケースを引きずって駅まで歩いた。シャワーを浴びてせっかく生まれたてみたいに綺麗になったのに、駅に着く頃には汗だくだった。夏は気がつけばそこにいる。去年は特別夏らしいことをした記憶はないが、今年は友達と海を見ながらビールを飲んだり、ドライブしたり、花火を見たり、かなり体に何かしらのビタミンが漲っている感じがする。存在感ある真っ赤なキャリーケースは恥ずかしそうに電車の車内の隅に収まっていた。

知人に勧められて、江國香織の「落下する夕方」を読んだ。読んだ人にしかわからない読書感想文を書くとするならば、それは使い古した財布を手放す時のようだ。自分の手の形に全く馴染んで、淡い擦り切れの一つ一つも、しんなりとした皮が手を滑る感触も、目を閉じれば鮮明に思い出せるほどに使い古した財布。そんな風にずっとずっと愛していたものが手を離れていく。その胸を締め付けるような寂しさや不安と、奇妙なほどにどこまでも自然な心地よさが同居していた。それは真新しい傷口を消毒するときの痛みによく似ている。ずきずきと、痛みは確かに傷跡がそこにあることを主張する。けどそれは、不思議と心地よく、決して嫌な痛みではない。頭に浮かんでは消えていく、普通に生きていたら見逃してしまうような一瞬一瞬を、こぼさずに、丁寧に掬い上げている。

大阪駅に着くと、みんなエスカレーターの右側に整列している。まるで目に見えない糸でぴんと引っ張られているみたいに、無意識に、整然と。私は毅然とした態度で、確かな意識を両足に巡らせて、右側に立つ。

大阪駅で、同じ大学に通う友人と会った。すらりと背の高い彼女は、回転寿司に行くと、決まって一番にコーンの軍艦巻きを頼んだ。ぽつりぽつりと場所を変えつつ、行く先々で当たり障りのない話をした。何もすることがなくても、ただそこにいて一緒に時間を過ごすだけで心を満たしてくれる友人がいるというのは、心底幸せなことだ。並々と注がれたホットミルクみたいに。

今はまた別の友人の家に転がり込んで、清潔な布団の中でこの日記を書いている。私が嬉しくても、悲しくても、目を覚ますことが億劫でも、明日は変わらずやってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?