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『もういちど生まれる』を読んで

 朝井さんの作品は怖い。なぜなら皆んなが感じている誰も口にしようとしない、いわゆる禁断のあるあるを的確に突いてくるからだ。読み始めたら一気に読んでしまうが、読み終わった後の疲労感が尋常でない。放心状態が続く、そんな感じ。まさにその放心状態の最中に、感想を書き残したい。

 この本は短編小説であり、作中の主人公は全員19歳や20歳で4年生大学の学生、専門学生、美大生、浪人生と、異なった境遇の人々を描かれている。読み終えて、4つの重い重い感想を持った。

 1つ目は、子どもの頃に抱いた20歳の像と現在の私とのギャップ。私が想像していた20歳は、「すごい人」であった。「すごい」というのは、スポーツができ、頭がとびきりよく、外国語を使いこなし、とにかく足が速い。万能人間。
 しかし想像していた20歳と全然違かった。家でごろごろスマホを弄り、眠くなったら寝る生活が習慣付いてしまったため、大抵28:00に就寝する。そして何もかも中途半端。
 今の生活を知ったら、当時のガキは、「早く大人になりたい」なんて絶対に言わない。

 2つ目は、大学。私は田舎から上京した身なので、いかに田舎から抜け出そうと、入学当初は「大学生っぽい」に憧れを抱いた。しかし後に「大学生っぽい」の意味は180°変わる。
 大学は「何者」かになりたい人が集まる場。特に大学1年生らしき学生は、「何者かになりたい臭」がドバドバと出ている。「大学生」になろうとなろうと必死であるからだろう。この場所で、こんなにも多くの友達と、ここまで楽しくできますよと見せびらかしているように思われる。服装や髪型も見様見真似。私もそうであった。
 しかし次第に「大学生っぽい」の枠組みから飛び出し、個性を出し始めたくなってきた。例えば映画を語らせれば右に出るものはいない、アングラで生きています、オシャレ番長などなど。「大学生っぽさ」を存分に楽しんだ、或いは飽き飽きした人は、自分という人間で勝負したくなってくる。大学4年まで大学生っぽい人はそうそういないはず。皆どこかのタイミングで、忘れていた個性に気付いてしまう。今や私は、「大学生っぽい」と言われると、未だ大学生の醍醐味を享受している人間だと思われているようで、気恥ずかしい。同時になんでこんなにも偏屈な人間になってしまったのであろうと悲しくなる。

 3つ目は、自由。大学生活は人生の夏休みと呼ばれ、とにかく自由。海外旅行に行こうが、思い立ってツーリングに行こうが、バイトで貯めたお金でダブルスクールに通おうが、何をしても自由。時間がとにかく有り余っているためである。大学1年の頃、この自由すぎる自由を存分に味わっていた。しかし大学2年になり、自由が自由すぎるあまり、自由を素直に楽しめない体になってしまった。

 4つ目は、感受性の衰え。小学生の頃に比べたら10分の1、それ以下になってしまった。テーマパークに訪れても、感動しない。大好きなアーティストのライブに行っても、最初の感動は超えられない。友達と遊ぶのが大して面白くない。
 最近気づいたことだが、自由はある程度制約があったほうが楽しめる。振り返ってみれば昔は、自由にしっかりと制約がついていた。小学生の時は、「暗くなる前に帰らければならない」、中学生の時は、「部活のない日しか遊べない」、高校生の時は、「唯一の収入源である小遣いの範囲内で遊ぶ」など。一方、今は制約がない。広い目で見れば、「法の下」、「消費者金融のお世話にならない範囲」だけであろう。
 人と真剣な話をするため、楽しく遊ぶために、お酒を介さないといけなくなってしまった自分が情けない。バスケットボール一つで3、4時間があっという間に過ぎてしまったあの頃の自分はもういない。

 この本は大人になることは残酷であると、目に見えてひしひしと感じさせた。20歳が抱く葛藤を激しく共感してしまい、いつもより放心状態が長く続きそうである。