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ガリレオの時代に自分は地動説を信じることができるのか?

科学では常識だと思われたことが覆ることが起こる。アインシュタインの相対性理論も当時空気中にはエーテルと呼ばれる存在があるとされていたがアインシュタインが光の特殊性を考え、理論を確立させ、エーテルという存在が否定された。
エーテルと言われてもイメージつかないだろうけど、科学、科学だけではなく、この世界において非現実的なことも受け入れて、考えることが大事な時がある。感覚としてはエーテルの存在よりも地動説、天動説のほうがイメージしやすいのではないかと思う。今の子供は情報が多く、もしかしたら考える前に知ってしまっているかもしれないが、自分が子供のこと、地動説、天動説の話を聞いたときに意外で驚いた、地球中心に回っていると思っていた。幼いながら地球中心だと思い込んでいて、地動説というものを知って、科学の面白さ、興味というのが湧いたように記憶している。自分が果たして、ガリレオの生きた時代に地動説を信じることができたのだろうか?と想像することもあった。


「われ思うゆえにわれあり」
人の存在を意識する上でこのデカルトの言葉は哲学でとても重要な命題。これまでも書いていることであるけど、人類の未来について、特にミームという存在を考慮した中で地動説のように客観的な視点で物事を見極めることができるか?というのは必要になってくるように思う。今、作品制作のためにいくつかの資料を読んでいますが哲学、近未来や未来の人類に関わる考え方なども読んでいます。その中の一冊は出版自体は昨年のもので新しいものでしたがミームという存在が出ていなかったです。ただ内容の中にミームに関係するのではないかなと思われる点もあり、数年後にはミームという存在を意識した考え方も多く出てくるだろうと思います。下書きもしていないのでだらだらと説明を書きすぎてしまいました。生物学、遺伝子の研究で有名なドーキンス博士は遺伝子は情報、体(肉体)は乗り物と表現することもありました。遺伝子もミームも情報、そして「われ思うゆえにわれあり」をどう捉えるかによっていろんな価値観が出てくるように感じています。この世界が性善説のような世界であれば不安もなく、ただ未来を待てばいいのかもしれない。しかし、科学技術の発達とミームの存在はいろんな可能性を秘めているように思います。以前にも書いたように思いますが古代から不老不死を願う人は存在し、現代でも不死こそ望んでいないかもしれないが老いを避けたいと願う人のほうが一般的だろう。少し前の時代であれば人類の未来を憂慮する必要は低かったかもしれない。しかし、コロナも含め地球のバランスが崩れている、環境問題も含め生命の危機が迫った時に死に物狂いで生きることを選択した場合、どのような選択をするか?どのような可能性があるか?は考えていかないといけない時期にきている。コロナのようなウイルスの危険だけでなく、環境問題、二酸化炭素問題、温暖化も絡まってくれば人の肉体はどのようなものでもいいと考える人が出てくるだろうと思う。今はまだ倫理観も高く、人以上の存在、機械化にしろ、遺伝子操作にしろ、そういった超人のつくるということを抑えられているが今後、環境のバランス、それだけでなくいろんなバランスが崩れれば、生きる選択としてそういった行為をする人達が現れても不思議ではない。

超人をつくったら、今まで高温、多湿、乾燥、寒冷などで住めなかった土地でも生きていけるようになるかもしれない、また環境問題、エネルギーに関しても核汚染に強い肉体があれば核エネルギーを容易に使いやすくなる。
自分は古いタイプの人間だから超人がいいとは思わない。しかし、そういったものを作り出せる時代はいずれ来るし、今のような地球の環境問題、バランスであればどこかで破綻がきても不思議ではない。その時に冷静に判断できるか?コロナ禍の世界を見て、危険が迫れば倫理観も崩れるのではないか?と思う。だからこそ冷静に判断できるとき考えておく必要がある。
人類というのは地動説と同様に人類中心に世界が回っているのではなく、人類も世界の中で回っている一つの存在なのではないか。そういった意識を持って、未来をどうつくっていくか。未来は決まっているのではなく、つくっていくものだからこそ意識することは大事だと思う。

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