見出し画像

「努力」って何、「努力の才能」って何

精神論的な「努力」って嫌いなんよ

 「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」とか、「努力は必ず報われると自分が証明してみせます」といった格言をよく見るが、どれも「とにかくやればいい」というただの精神論に過ぎないのではないか?と思う。
どの言葉も結果が出たから言えることで、「努力したいけどできていない」「努力してみたけれどうまくいかず心が折れそうだ」という人にまっすぐ届かない。
もちろん「とにかくやる」のは必要なんだけども、「努力」はそれだけではない。結果が出るとも限らないし、そもそも「努力できる才能」があっての話よね?
まあつまるところ、私はこういう「精神論的な努力」ってものが嫌いなのです。

一般人のわたしが欲しい言葉は、「努力とは何か」「なぜ続けていられるのか」なのです。

努力しても結果がついてこないという苦しさ
ー「努力」とは何か

「努力」とは何か

ではあらためて、「努力」とは何だろうか。
私は「目指したい目標と現在の自分を冷静に見比べ、分析して、その間を埋めるためにやるべきことを淡々とこなすこと」と考えている。

①素直な気持ちで本心から目指したい目標を定めること
②目標と現在の自分の差を理解する
③差を埋めるために作戦を立ててみる
④やってみる
⑤成功
⑤'失敗
⑥'自分の過程を認めてあげる
⑦②に戻る
⑤''失敗
⑥''まあいいかと思って現状維持

努力の道筋を具体的に書くなら、こんな感じだろうか。

努力しても結果がついてこないという苦しさ

努力しても結果がついてこないときがある。とにかくつらい。苦しい。この苦しさの理由は何だろう。
私は「社会的にはどんな努力をしようが結果を出さないと意味がない」から、「社会的にはその”過程”は事実として認められないから」だと結論づけた。
自分が存在を信じる”過程”を誰からも事実として認められないことは本当に苦しい。ほんとうに。

ではこういう苦しさをなんとかやり過ごすためにどうすればよいか?
---「どんな努力をしようが結果を出さないと意味がない」。けれども、それを理解したうえで自分自身に対してだけは努力したことを、”過程”の存在を事実として認めてあげることが必要ではないか。
自分で自分の努力の過程を認めたうえで、改めて結果を出すための方法を冷静に筋道立てて考えることが必要なのではないか。
これが、先に示した努力の道筋の⑥'にあたる。

ただ、これだけでは自己満足に過ぎない。
自己満足のための活動(自分が楽しい人生を送るためのこと…趣味とか)ならそれでいいが、 社会との繋がりの中で何かしらの評価を求める活動ならば成功した先の評価が求められる。改めて自分の現状を見返し、自分の目指す評価を見返し、その間を繋ぐ努力が何なのかいまいちど確認する必要がある。その意味で、先に示した道筋の⑦を加えている。

「努力の才能」とは何か

「努力」とは「目指したい目標と現在の自分を冷静に見比べ、分析して、その間を埋めるためにやるべきことを淡々とこなすこと」だという話をした。
でも、これは最初から分かっていたわけではない。生まれながらにして「努力」の何たるかを知っていたら苦労しないが、私は幸か不幸かそんな子どもではなかった。幸いにも「努力」の何たるかを教えてもらえる環境で過ごしながら、一連の大学受験を通してようやく理解し始めたという「努力の初心者」な一般人といえる。

①素直な気持ちで本心から目指したい目標を定めること
②目標と現在の自分の差を理解する
③差を埋めるために作戦を立ててみる
④やってみる
⑤成功
⑤'失敗
⑥'自分の過程を認めてあげる
⑦②に戻る
⑤''失敗
⑥''まあいいかと思って現状維持

「努力できることも才能である」という言説があって、この言葉自体にはまったく同意する。一方、 この一連の考え方からすると「努力できることも才能」という言葉はたくさんの意味を持つ。
人間は生まれながらにして努力できるわけではないし、自分でその過程を認めることもできない。人間は誰しも、努力の方法をどこかで学んで、過程を認めてあげることを学ぶ必要がある。

努力の才能があるというのは、 たとえば
努力の方法と、「過程を認めること」を学べる環境にいたということ、
そもそも出した結果を事実として認めてもらえる環境にいたということ、
使える努力の方法に選択肢が多く、自分に合った努力の方法を手に入れられたこと…
なのである。

先に示した「努力の道筋」ひとつひとつすべてを全員が生まれ持っているわけではないからこそ、たまたまその道筋のどれかを生まれつき理解できていた、理解しやすい感覚を持っていた、それぞれの道筋を容易に学べる環境にいたかどうか、様々な手法を試すことができる環境にいたかどうか、これらすべてが「努力の才能」といえるのではないだろうか。

逆に言えば、こうした環境を整えることが、人生を通して「努力ができる人」「自分なりに何かを頑張って達成できる人」、ひいては「自分の足で生きていける人」を育てるためのカギになるのではないか。

教育関係の仕事に就く予定はないが、人を育てる、見守るといったことは長い人生においてずっと続く営みであるから、
こうした視座はつねに備えておきたいな、と思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?