先生とわたしの物語
この人に出会っていなかったら、今の自分はない。
そう思えるような人が、誰しもいるかと思う。
私の場合、ピアノの先生がその一人だ。
通っていたピアノ教室で1、2を争うマイペースな生徒だった私。
ピアノを練習しに行ったのか、先生とお喋りをしに行ったのか
よくわからないといった有様だった。
そんなある日、いつもお世話になっていた先生から
「今度のレッスンから先生変わるからよろしくね!」といわれてびっくり。
新しい先生は厳しい人だという噂を聞いていた私は、
あ、終わった…と思った。(ほんと失礼)
思っていたより穏やかそうな人。
これが先生と初めて会ったときの第一印象。
とりあえず何か弾いてごらん、と言われて、
いつもより気持ち多めに練習した曲を緊張しながらも何とか弾きおえ、
おそるおそる振り返ったら、
「君のピアノはいいねえ」と笑う先生の姿があった。
予想外の一言に驚いてしまい、思わず
「でも私、あんまり上手には弾けません」と返すと、
先生は可笑しそうに、でもどこか真剣にこう言った。
それから週一回、先生とのレッスンが始まった。
「君のピアノはいいねえ」は先生の口癖で、
先生のおかげで、下手でもピアノを好きでいられた。
そんな先生が実は長年がんと闘っていると知ったのは
少し経ってからのこと。
少しずつ、少しずつレッスンに来てくださる日が少なくなり、
車椅子に乗っている日が多くなっていった。
でも先生はいつも穏やかに笑っていて、
私も心のどこかで、このまま治るんじゃないかと期待した。
しかし、冬も深まるころ、
先生の病状が悪化したので、レッスンはもうできないという連絡が
先生の奥さんから届いた。
次のレッスンの日。
レッスンが終わってから先生に会いに行った。
いつも通り、穏やかな笑みは変わらなかったけれど、
先生がベットから起き上がることはなかった。
たぶん、その時初めて
私は、病気の進行という現実をはっきりと目の当たりにしたんだと思う。
先生のことは本当に大好きで、尊敬していて。
でも確実に弱っていく先生とずっと向き合う覚悟も、勇気も、
その時の私はひとかけらさえ、持っていなかった。
結果、それから一度も会いに行くことができなかった。
もうすぐ桜の蕾もほころぶかという日の昼下がり、
先生が数日前に亡くなったという知らせを受け取った。
実感がないまま、すぐにピアノ教室に向かった。
先生の部屋はまるで人が住んでいなかったかのように空っぽで、
目に入ってくるのは供えられたたくさんの花と、
いつもの笑みを浮かべている先生の遺影だけ。
本当に、いなくなってしまったんだ。
そう思った瞬間、涙が止まらなくなった。
どうして会いに行かなかったんだろう。
目を背けたって、病気が消え去るわけでも、進行が止まるわけでもなかった。
ちゃんと向き合っていたら、もっと、もっといろんな話ができたはずなのに。
何をわたしは怖がっていたんだろう。
後悔。自己嫌悪。そして喪失感。
いろんな気持ちがぐちゃぐちゃになったまま泣き続ける私に、
先生の奥さんが
「実はね、先生から預かっている遺言があるのよ」という一言を添えて、
ある楽譜を手渡してくれた。
「今度の発表会で、これを弾いてほしいんだって。」
当時の私のピアノのレベルからすれば、
その曲の難易度が高すぎるのは明らかだった。
何て無茶な…と、驚きのあまり、
一瞬涙が止まってしまった私の脳裏をよぎったのは、
先生のしたり顔。
まったく、先生には敵わないなあと、思わず泣き笑い。
私みたいな生徒を、最後まで大切に思ってくださった先生のためにも、
この曲を必ず完成させようと誓った。
そこから半年間、これまでの私からは信じられないほどに必死に練習を重ねた。
こうなったら、お茶目な先生の無茶振りに答えて、
天国でびっくりしてもらおうじゃないか!と、そういうわけだ。
そうして迎えた発表会の日。
いつも以上に緊張して、震える手を必死に握りしめる。
マイク越しに呼ばれる、私の名前。そして半年間向き合ってきた楽曲。
落ち着け、と自分に言い聞かせながらステージへと向かい、
椅子に腰掛ける。
心の中で先生の口癖を呟いて、鍵盤に指を乗せた。
舞台袖にはけると、そこにはあの穏やかな笑みを浮かべた先生の写真。
ここにいてくださったらな。分かっていてもそう願ってしまうけれど、
ちゃんと無茶振りに答えましたよ、とにやり、笑いかえしてみた。
あの日から、もう6年ほどが経つけれど、
ベートーヴェンのソナタを聴くといつも、
先生の穏やかな微笑みと、あの言葉を思い出すのだ。
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