忠臣蔵60年終焉説
今年も忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の季節が近づいてきた。
これを機に、すんどめはかねてよりの持論、忠臣蔵映画1960年終焉説をご披露したい。
〇
その前に……
今の若い方はもとより、すんどめの世代でさえ、忠臣蔵という概念はすでに共通認識の対象でなくなっている。
そこで、大変僭越ながらすんどめが、忠臣蔵なる概念について大雑把におさらいしたい。
そもそも忠臣蔵とは、忠義の家臣・大石内蔵助(くらのすけ)というほどの意味を持った略語である。
江戸時代の中頃、元禄15年(1703年)12月14日、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)屋敷へ元赤穂(あこう)藩士の浪人47名が討ち入り(分かりやすく言えば、殴り込み)をかけ、吉良を殺害するという事件が現実に起こった。
この事件をもとに、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする膨大なフィクション作品群が創作され、フィクションがフィクションを生む形でさまざまの2次創作やスピン・オフが世に現れ、その現象は今も細々ながら続いている。
大石内蔵助はこのテロ事件の主犯格の人物である。
忠臣蔵とは彼を指す言葉であると同時に、これら膨大な数のフィクション作品群の総称のようにも用いられる。
そんな忠臣蔵作品は、次のように物語られるのが最も一般的である。
元禄14年2月14日、赤穂藩(現在の兵庫県の一部)の藩主であった浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介からイジメを受け、現代風に言えばキレてしまい、つい刀で斬りつけてしまう。
よって浅野は切腹、お家はお取りつぶしとなり、たくさんいた赤穂藩士たちはみな浪人となる、つまり失業をしてしまう。
しかし吉良はまだ生きており、彼ら元赤穂の浪人(俗に言う赤穂浪士)たちは「亡き殿の無念を晴らす」べく、艱難辛苦の末に翌15年、江戸(現代の東京)の吉良屋敷を襲撃して本懐を遂げたのだった、めでたしめでたし、というわけだ。
むろん、このすべてが史実なわけではない。
史実にインスパイアされる形で、さまざまな空想が付け加わり、このような形になったのである。
なんでこれほど過激なテロリストたちが、忠臣だのヒーローだのと崇められるようになったか、その背景は例えば山本七平氏の『現人神の創作者たち』に詳しい。
いずれにせよ、すんどめの考えでは、戦後になって『宇宙戦艦ヤマト』が現れるまでの長い間、日本人にとっての「物語」のあり方を支配し続けてきたのが、この忠臣蔵なのである。
即ち、
・仲間のために頑張る(場合によっては自己犠牲)
・がまんの末に殴り込み
の2点を不可欠要素とするような物語のあり方がそれである。
1点目は、「週刊少年ジャンプ」などに顕著な、努力・友情・勝利の典型パターンである。
主人公の奮闘努力は、最終的に仲間のためという目的へと帰着されていく。
当初は何らかの目的のために集ったはずの仲間も、そこに友情や仲間意識が芽生えるうち、いつしか仲間そのものが目的化し、仲間のために頑張るというロジックへ変化・帰着するパターンである。
2点目は、「がまんの末に」が分かりづらければいったん脇へ置き、要するに最終的に敵の「要塞」へ侵入して、ついには「ラスボス」を倒すという例のあれのことである。
言うまでもなく、吉良上野介がラスボスである。
1960年代、東映がヤクザ映画路線を始めたとき、最も一般的であったのが、この「殴り込み」物語であった。
いわば「悪いヤクザ」と「よいヤクザ」がいて、よいヤクザと堅気の一般市民は悪いヤクザによってさんざん苦しめられ、がまんにがまんを重ねた挙句、最後の最後に、よいヤクザが殴り込みをかけて悪いヤクザをやっつけることにより、観客はスッキリしたのである。
たとえば当時の典型的な任侠映画の1つ『侠客列伝』(1968年、東映)は、忠臣蔵のストーリーを完全に焼き直したものとなっている。
興味深いのは、今でもヤクザ路線・任侠路線と呼ばれる映画は、基本的にすべてこの型である。
最後まで1度も殴り込みをかけないような展開は、『竜二』などごく一部の前衛的・革新的・独創的作品以外には、ない。
1980年代の、『セーラー服と機関銃』や『二代目はクリスチャン』といった、いわばヤクザ映画のパロディでさえも、最後には殴り込みである。
さらに2000年代の『愛のむきだし』のような、全くヤクザ映画と関係ないジャンルの作品にも、主人公がたった1人で日本刀を持ち、家族が軟禁されている宗教団体施設へ乗り込む描写があり、形を変えながらもヤクザ映画のフォーマットは生きていることが分かる。
東映ヤクザ路線というものは、殴り込みに向う際の「道行き」シーンが重要視される。
決意とドスを懐に、ゆっくりと歩いていく主人公。
そこに「仲間」が現れ、ご一緒させて頂きます、という話になる。
一緒に死のうという壮絶な決意と、最終的にそれを受け入れる側のこれまた壮絶な決意とが、多くの観客の涙を誘うわけである。
この、ご一緒させて頂きます的なフォーマットは、90年代のアニメ『カウボーイビバップ』にもあからさまに受け継がれており、文字通り「組織」に決着をつけ、愛する人の仇を討つべく事務所へ乗り込んだ主人公の前に、かつての弟分が現れ、
「あなたの側につきます」
とくる。
こうした「道行き」は、まぎれもなく忠臣蔵作品群において、雪のなか赤穂浪士らが吉良上野介屋敷へと向かうときのそれであり、特に映像作品で彼らがそのとき歩いたり走ったりする過程をわざわざ撮る手法は、たとえば『必殺!』シリーズで毎回殺し屋たちがターゲットの下へ向かう「道行き」シーンにも反映されている。
このように、ヒーローが仲間のために頑張る姿と、命を捨てて敵の基地へ乗り込む姿との両方を実現した古典こそが、西部劇などの輸入ものと並んで、国産品ではまさにこの忠臣蔵なのであった。
なにしろ47名もいて、その他にも討ち入りに行けなかった人、行かなかった人、あるいは行った・行かない双方の奥さんや子どもと、実に多くの人の思いや苦労が想定されるため、2次創作やスピン・オフを創りたい放題であり、いくらでもドラマチックに盛り上げることができる。
何度でも、解釈を変えて作品を生み出すことができる。
討ち入りは、旧暦とは言え年末であったため、今でも毎年12月になると忠臣蔵関連の新作が何らかの形で公開されたり、過去の忠臣蔵映画が再放送されたりして、人々はその「定番の感動」を楽しんでおり、それは一種の年中行事の様相すら呈して久しい。
余談ながら『デスノート』の悪役がキラという名前である点にも、忠臣蔵の色濃い影を見ずにはいない。
作品の中で何だかんだと理屈はつけられてはいても、少なくとも今の60代以上の人がキラと聞けば、
「お、なんか吉良上野介みたいだな」
と思わない筈はなく、作者がそのことを意識しないわけもまたないのである。
以上が、少なくとも創作に込められた日本人の精神のあり方と、忠臣蔵との関係性である。
なお、『宇宙戦艦ヤマト』が出て来るまでは、と書いたが、それはどういうことかというと、『宇宙戦艦ヤマト』以降の日本の作家、とりわけマンガやアニメーションの作家は、たとえどんなに『ヤマト』を批判し、『ヤマト』的でないものを創ろうとしたところで、そうやって『ヤマト』を意識するあまりかえって『ヤマト』の呪縛からは逃れられない、ということが一般によく言われるらしい。
仮にそうだとすると、その支配力は忠臣蔵にも匹敵する。
言い換えれば、『ヤマト』の登場によってようやく日本人は、忠臣蔵以外のものからも支配されるようになることができた、というわけだ。
そして、ここまで述べたことはすべて、本来すんどめが述べるまでもなく、日本人の常識なのである。
※
さて。
このように江戸・明治・大正と、さまざまの小説に描かれ、さまざまの舞台に演じられ、さらに戦前・戦後と時代が下ればさまざまの映画にまで活写された忠臣蔵。
1950年代の東映時代劇映画全盛のころにはすでに、年末年始の定番として、多くの作品が創られていたと思われる。
ところが。
すんどめがここで注目したい1本の映画、『赤穂浪士』(1961年、東映。松田定次監督、片岡千恵蔵主演)は、あたかも、
「これで忠臣蔵映画は最後だ!」
という強い意図の下に創られたのではないかと思われてならない。
※
そのことを徐々に明らかにするため、まずは、この61年の『赤穂浪士』に対するすんどめの愛を赤裸々に語らせてもらう。
この『赤穂浪士』こそは、すんどめがいちばん好きな忠臣蔵作品である。
断トツである。
これ以外に、特別好きな、あえてもう1度観たいと思う忠臣蔵映画もドラマも、ない。
浅野内匠頭がキレて吉良上野介に斬りつけてしまう場面(いわゆる刃傷松の廊下)も、最後の吉良邸討ち入りも、他の作品とは迫力が全く違う。
あまりの素晴らしさに、4回観てしまった。
何だか分からぬが、とにかく良い映画なのだ。
しみる。
これさえ観れば、他に忠臣蔵は観なくてよい。
というのも……
※
この61年の『赤穂浪士』では、大石内蔵助を片岡千恵蔵、吉良上野介を月形龍之介、浅野内匠頭を大川橋蔵が演じている。
吉良上野介の息子の重臣、つまり吉良を赤穂浪士たちから守る責任者であり、内蔵助の最大のライバルにあたる千坂兵部(ちさかひょうぶ)という男を市川右太衛門が演じており、ここが最重要ポイントとなってくるので覚えておいて頂きたい。
さらに、赤穂浪士のメンバーつまりヒーローの仲間であるところの堀部安兵衛を東千代乃助が、片岡源吾右衛門を山形勲が、大石の息子でやはり討ち入りメンバーでもある少年・大石主税(ちから、幼名松之丞)を松方弘樹が演じる。
ヒーローたちのシンパとしては、浅野内匠頭の友達で別の藩の殿様・脇坂淡路守を萬屋(当時は中村)錦之助が、また堀部安兵衛と仲のよい畳屋の若い職人を錦之助の弟・中村賀津雄が演じる。
一方「敵」にあたる、吉良のボディ・ガード清水一角(いっかく、またいちがく)を松方弘樹の父・近衛十四郎が、吉良の息子で米沢藩(今の山形県の一部)の藩主を里見浩太郎が、また敵か味方か分からぬ謎の男・堀田隼人を大友柳太朗が演じる。
これが当時の「東映オール・スター・キャスト」というわけであり、ご覧の通り、とてもじゃないが覚えられない。
が、後で効いてくるので、これらの顔ぶれをぼんやりとでも印象づけておいて頂きたい。
さて、その市川右太衛門演じる千坂兵部である。
この映画の最大の特徴は、大石内蔵助と千坂兵部とが、かつて山鹿素行(やまがそこう)先生の山鹿流軍学塾で同窓だった無二の親友という点にある。
このような忠臣蔵映画は、他ではあまり観たことがない。
物語は、2人の悲しい友情を軸に進む。
かつて山鹿素行から、国づくりは大石・兵法は千坂と並び称された優等生でライバルの2人は、長じてのち、かたや赤穂藩の家老(重臣のトップ)、かたや米沢藩の家老となり、離れ離れになりながらもその友情は長年にわたって続く。
米沢が財政逼迫の折、大石は千坂に、持続可能な産業創出のため米沢の豊かな森林資源を生かし新しい織物ブランドを創設するようアドバイスをし、そのおかげで名物・米沢織が誕生して藩の経済は再建、千坂の奥さんは自ら米沢織を習い覚え、大石の奥さんへお手製の着物をプレゼントするというふうに、まさに家族ぐるみの非常に固い絆である。
そこまで仲良しの2人が、浅野内匠頭の事件によって敵味方へ分かれ、争うこととなってしまった、その悲劇こそがこの映画の核なのである。
ここで面白いのは、たとえば大石内蔵助が京都の祇園で豪遊するシーン。
主君の仇を討つことなど忘れ去ったかのように酒色におぼれる大石の様子を、千坂のスパイたちが報告する。
ここで千坂が、
「大石という男、わしはチト買いかぶり過ぎておったようじゃ、フハハハハ」
とか、あるいは逆に、
「それは我らを油断させるためのカムフラージュ。
だまされるな。
引き続き、ぬかりなく見張れ」
などと言うのがふつうの時代劇である。
ところがこの作品では、そんなことは一切言わない。
報告を聞いた千坂兵部は、ハッ……!
として、深刻な驚きと、深い悲しみを宿した顔になる。
妻がいぶかってどうしたのか尋ねると、
内蔵助め。
このわしに、丸裸でぶつかってきよる。
わしと内蔵助が素行先生の門下におりしころ、大名ナントカの守が旗本カントカの守に刃傷(にんじょう、つまり殺傷事件を起こした)。
ためにナントカ家はお取りつぶし。
このとき、もし、我らがナントカ家の家老ならば、いかにして主君の仇を討つかというケース・スタディを行った。
連日議論して、わしと大石が達した結論は、いかなる破廉恥のふるまいをも敢行し、敵を油断させるのがベスト、というものであった。
その、2人で考えた作戦を、奴め、いま堂々と包み隠さずやりよる。
このわしに、何のカムフラージュもせず、丸裸でぶつかってきよるのだ。
ウワーッ!
そう言って、千坂のせっかく治りかけていた心臓はぶりかえしてしまう。
即ち、世間に対してはカムフラージュであっても、千坂その人に対しては真正面からの正々堂々たる宣戦布告なのだ。
さて、千坂が心臓で倒れた情報を今度は大石の手の者たちが、祇園で遊びほうける大石へ届ける。
大石は報告を聞くなり、静かに目をつぶって、
兵部をそのようにしたのは内蔵助じゃ。
このわしが、兵部の胸を引き裂いたのじゃ。
携帯電話もメールもない時代に、何年も遠く離れ離れになった友達どうしが、まるで打てば響くがごとく互いの気持ちを分かり合うのである。
この、視聴者の予想より常に1歩ないし半歩の先をゆく人物描写・心理描写の見事さこそが、この映画の特長である。
※
そもそもこの作品、分かり切ったシーンは出さないという傾向がある。
たとえば、吉良上野介がいかにして浅野内匠頭をイジメるに至ったか、その経緯が映像に出て来ない。
内匠頭が上野介にワイロを渡さなかったからであろう、という推測がのちの会話で語られるだけである。
有名な、200畳畳替えのシーンもない。
これは、上野介が内匠頭への嫌がらせの一環として、たった1晩で200畳の畳をリニューアルしなければならないハメに陥れるというくだりである。
ふつうの忠臣蔵映画ならここで、赤穂の家臣・堀部安兵衛が旧知の畳屋の親方に頼み込み、江戸じゅうの畳職人の協力を得、職人と武士とが一致団結、夜を徹して畳替えの作業を遂行するという、手に汗握る感動のシーンを入れる。
が、この61年の『赤穂浪士』では、徹夜の作業を終えた畳屋たちをねぎらって堀部らが酒をふるまうシーンをいきなり入れ、その会話の中で件の経緯をすべて物語ってしまう。
さらに、浅野内匠頭の切腹シーンも、もろには見せない。
切腹の作法を一通り終え、ウッと顔を歪ませるアップを入れた直後、介錯人が勢いよく刀を振り下ろすカットへとつなげ、それだけで切腹したことを表現する。
お腹を切り裂いているカットは存在しないのである。
そればかりではない。
最後に大石内蔵助が吉良上野介を斬るところも、ギリギリのところで見せない。
亡き主君が切腹したときの刀を持って、大石が吉良に迫るそのアップを映すだけで、直後、場面は47士が吉良の首を持って浅野の墓まで歩いていくところへと切り替わってしまう。
即ち、誰もが観たいシーンをあえて入れず、見せないことでかえって想像させ、名場面であることを逆説的に表現することに大成功した作品なのである。
これは、視聴者を全くバカにしていないということになる。
これまでたくさんの忠臣蔵映画を観て、おおまかなストーリーは知り尽くしている視聴者向けの作品であることが、ここから分かろうというものである。
※
さてこのように、
・大石と千坂の友情を軸に描き、
・分かり切った説明的描写は徹底排除
・かつ、視聴者の予想の1歩先をゆく
といった特長を持つ同作品は、ではいかにして、
「忠臣蔵映画はこれで終わりだ!」
という気合のもとに創られたと想像しうるのか、そのことについて見ていこう。
まずどうしても説明しなければならないのは、以下の点である。
即ち東映は、1956年に東映5周年を記念して映画『赤穂浪士 天の巻・地の巻』を公開している。
同じメイン・タイトルだが、61年版とはもちろん違う映画である。
そのわずか3年後、1959年に東映は映画『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』を公開している。
さらにその2年後、61年に、問題の『赤穂浪士』が東映から出るわけで、わずか5年で3本の忠臣蔵ものが同じ会社から出たことになる。
しかも、すごいのは、3本が3本とも、松田定次監督の手になる。
偉大なるマンネリズムというほかはない。
これら3本の比較を、より詳しく見てみよう。
※
56年版『赤穂浪士』は、61年版と同じく大佛次郎の小説が原作である。
主演すなわち大石内蔵助役は、ここでは市川右太衛門(61年版で、あの千坂兵部を演じた役者!)である。
吉良上野介と堀田隼人は、61年版とまったく同様、それぞれ月形龍之介と大友柳太朗が演じている。
以下、浅野内匠頭を東千代乃助、赤穂浪士のひとりを萬屋錦之助、そして何より重要なことには、立花左近(たちばなさこん)という侍の役を、(61年版で大石内蔵助を演じた)片岡千恵蔵が、ここでは演じているのである。
立花左近については、極めて重要なポイントであるため、後に詳述する。
さて一方、これら3作のうち2つ目にあたる59年の『忠臣蔵』は、これは同じ原作を用いてはおらず、大石内蔵助を片岡千恵蔵、浅野内匠頭を萬屋錦之助、脇坂淡路守を市川右太衛門、赤穂浪士のメンバーである堀部安兵衛を大友柳太朗、同じく大石主税を市川右太衛門の息子である北大路欣也、その他のメンバーを東千代乃助や大川橋蔵や山形勲や月形龍之介、また将軍・徳川綱吉を里見浩太郎、吉良の息子で米沢藩主を中村賀津雄が演じている。
つまり、ほとんど同じようなキャストで、かつ同じ監督で、わずか5年の間に3本も同じような映画を撮ったというわけである。
さらに、すんどめの眼が正しければ、56年版『赤穂浪士』も、59年の『忠臣蔵』も、61年版『赤穂浪士』も、堀部安兵衛の義父・弥兵衛を演じた役者はすべて同一の俳優である!
おまけに59年の『忠臣蔵』でも、61年の『赤穂浪士』でも、堀部弥兵衛老人は全く同じセリフを言った記憶がすんどめにはある。
それは、最後の討ち入りシーンにおいて、弥兵衛が敵に討たれそうになったとき、義理の息子の安兵衛がさっと助けるのだが、助けられた弥兵衛は不機嫌そうに、
「ええい、余計なことをするな。
せっかく楽しんでいたに」
激しい戦闘の修羅場に湧く、1服の笑いである。
と、このように偉大なるマンネリズムを貫いた、いわば東映忠臣蔵3部作であったが、すんどめ思うに、普通こういう場合、最初の作品が最も優れており、回を重ねるごとにだんだん悪くなるものではないだろうか。
ところが、である。
何が驚くといって、3つの中でいちばん素晴らしいのは最後の作品、61年版なのである!
※
56年版も、決して悪くはない。
以下、特に56年版と61年版との比較に絞って、さらに話を深めたい。
ポイントとなるのは、
・立花左近と大石内蔵助のにらみ合い
・ラスト・シーンを飾る千坂兵部の感想
の2点である。
※
少し説明が必要と思うが、立花左近とは、これまたさまざまの忠臣蔵作品に登場する、次のような人物である。
物語の後半、いよいよ吉良を討つべく江戸へと向かう大石内蔵助とその仲間たち。
なにしろ大きなテロ行為をなそうというのだから、秘密裏に旅をしなければならない。
そこで大石は、見ず知らずの赤の他人・立花左近という武士になりすまし、その名前で宿屋へ泊まる。
ところがここへ、偶然にも本物の立花左近が泊まりに来て、大ピンチを迎えるという騒動である。
本物の立花左近は激怒し、自らニセモノの化けの皮を剥いでくれると気炎を吐いて、供の者をあえて待たせて単身、大石の部屋を訪ねる。
1対1で応対する大石。
隣室では、赤穂浪士たちがいつでも斬りかかれるようスタンバイをして耳をそばだてる。
立花は大石に鋭く詰め寄るが、大石は頑として自分が本物と主張。
しかしその言葉とは裏腹に、浅野家の家紋が入った入れ物をわざと見えるようにする。
その家紋を見た立花ははっとして、
(……そうか、この人物は旧浅野家の浪人!
恐らく家老の大石内蔵助だ。
ということは、ついに仇討のため江戸へ向かっているのだ!)
ということを悟り、常日頃から赤穂浪士に同情的だったのであろう、突如態度を変えて謝罪、自分こそがニセモノであると述べてその場を去る。
大石も、隣室の浪士たちも、みな涙が出るほど立花に感謝をするのだが、それを言葉に出すこともできず、大石はあくまで本物然として「ニセモノ」を「許す」。
なんとも泣かせる名場面なのである。
※
さて、実は56年版は、この立花左近とのやりとりを、最大のクライマックスのように精魂込めて撮っている。
前述のごとく、ここでの大石は市川右太衛門。
立花左近は片岡千恵蔵。
その片岡千恵蔵が、しばしば落語家・林家木久扇から「3頭身」と揶揄されるほどの大きな顔で、凄まじいにらみをきかせる。
それに対して、やはり「4頭身」と揶揄される市川右太衛門が、これまた大きな顔でにらみ返す。
すんどめはこの作品をDVDで観たが、往時の映画館の大画面を感じさせるほど、2人の顔の大きさが物凄まじい迫力を放っていた。
カメラが、2人の顔を交互に映す。
そのたびに、彼らの顔はより大きく、より迫力を増すかのようであった。
むろん、重くて力強い音楽がこのにらみ合いの緊迫感を盛り上げる。
セリフを排除し、無言の深遠の中に、命がけのギリギリのコミュニケーションを表現しつくす、まさに映画ならではの名演出であった。
後述する61年版よりも、このにらみ合いシーンに関しては、56年版のほうがすばらしい。
ちなみに56年版のオープニングにおけるタイトル・バックでは、市川右太衛門が大石内蔵助であるにもかかわらず、真っ先に「立花左近 片岡千恵蔵」という文字を出し、あえて最後に「大石内蔵助 市川右太衛門」という文字を出している。
まるで片岡千恵蔵が主演であるかのような扱いなのである。
(その意味では3作とも片岡千恵蔵が主演、ということにもなりかねない。)
では、この同じシーンが、すんどめが一番大好きな61年版ではどうなっているだろうか。
61年版では、すでに何度も述べている通り大石が片岡千恵蔵なのだが、一方の立花左近は大河内傳次郎である。
2人のにらみ合い、もちろん迫力はあるものの、56年版には及ばない。
が、面白いのはその後である。
大河内傳次郎演じる立花が自らをニセモノと偽って退出し、宿から出ていくのを、感極まった大石が玄関まで単身、見送りに出る。
見送った後、廊下を歩き部屋まで戻ろうとしていたそのとき、なんと行く手に、市川右太衛門演じる千坂兵部が立ちはだかるではないか。
既に述べた通り、この作品では大石の長年の大親友という設定の千坂。
江戸へ出て来る大石を警戒して張ってはいたのだが、ついにたまらず姿を現してしまう。
ここで、本当に、まぎれもなく、一切のセリフがない2人の純然たるにらみ合いが、始まる!
なんという演出だろう。
5年前には市川が大石、片岡が立花として凄絶なにらみ合いを演じた両者は、いま立場を変え、今度は市川が千坂、片岡が大石として再び熾烈なにらみ合いを見せたのである。
明らかに、ファン・サービス!
それも至上のファン・サービスである。
5年前の名場面を大切な思い出として心に刻みつけてくれている観客のみなさんに対する、お礼ともご挨拶とも、なんともとれるような、あるいはなんととってよいか分からぬような、まさに沈黙のメッセージ!
大石は、静かに、あくまでも静かに千坂の眼をしっかりと見据える。
一方の千坂は、その双眸に深い、言葉にならない悲しみを色濃く宿してやまない。
そこに、小さな音から始まって、だんだん、だんだん音量を増す音楽が、ついに激しい咆哮となって千坂の思いのたけの堰を切って落とす!
心臓が悪いこともたたったのであろう、たまらず少しよろめいた千坂が、涙をこらえて歩き出し、大石の袖へ手紙を入れて立ち去る。
その手紙は、大石の息子が元服(成人式)をするときには千坂が名づけ親になるという長年の約束を今果たす、彼には主税という名前を授ける、という旨だけが簡潔に書かれた手紙であった――。
それにしても、すんどめは思う。
あのとき市川右太衛門は、単に千坂を演じていただけではなく、語義的におかしな言い方だが、いま目の前にいる大石をかつて自ら演じた市川右太衛門その人になり切っていたのではないか。
5年前に大石を演じ、吉良邸に討ち入りした者として、今の大石に対し深く共感し、その役者の思いもプラスされて、ああまで筆舌に尽くせぬテンションの高みに達したのではあるまいか。
いや、そもそも初めから61年のこの映画は、それを意図してこのような配役・脚本になっていたのではあるまいか。
そんな気さえ、してくる。
※
56年版にも、もちろん千坂兵部というキャラクターは登場する。
登場するどころか、ここでもやはり主役に匹敵する重要な役どころである。
もっとも、61年版と違い、千坂と大石が親友という設定はない。
しかし56年版の千坂は、映画のいちばん最後のセリフを担う。
討ち入りを成功させた赤穂浪士らが、雪の中、吉良の首を持って町の中をノッシノッシと歩いていく場面。
見物人に交じって、千坂は彼らの背中を眺め、このように言う。
人間、死んだらおしまいだ。
死んだ人間のことなどみな忘れてしまう。
しかし(と、赤穂浪士らの背中を凝視して)、あの男たちは違う。
あの男たちは、永遠に死なない男たちとなったのだ。
わしはあの男たちを、羨ましく思う。
あの男たちのことを、心の底から、羨ましく思う。
こうして映画は終るのである。
いわば、千坂の眼を通じて赤穂事件を眺めた物語、と言えそうである。
すんどめは、61年版を先に観た。
61年版のその同じ場面では、例の市川右太衛門演じる千坂兵部が、やはりまったく無言のまま、赤穂浪士らの背中をじっと見つめている。
その沈黙のままに、映画は終る。
この沈黙にすんどめは、千坂が敵・味方という立場を超え、赤穂浪士たちの成し遂げたことに深く共感し、自分も同じ立場なら同じことをしたかったという強い羨望の眼差しを見た。
そして56年版を観、例の千坂のセリフを聞いた。
やはり、間違いない。
61年版は、56年版を観たことのある観客に対しては、あのときみなさんが観て聴いて感じてくれた思いですよ、という信号を発するため、かえって無言を貫いたのだ。
※
ここまで見てきたことにより、すんどめは1つのことを想像せずにはいられない。
61年の『赤穂浪士』を撮った人々は、それまでに撮ったあまたの忠臣蔵映画、ひいては時代劇映画すべての集大成を意図していたのではなかろうか。
――これまで俺たちは、色んな忠臣蔵映画を撮ってきた。
赤穂浪士の討ち入りに対し、あんな解釈もあった。
こんな解釈もあった。
彼らは本当はどういう思いで討ち入ったのだろうか。
さあ、結論に入るぞ!
あの映画ではあんな反省点があった。
この映画ではこんな反省点もあった。
もう1度撮れるなら、あのシーンはああしたかった。
このシーンはこうしたかった。
さあ、そのすべての反省点を生かすぞ!
2度と後悔することのない忠臣蔵映画を創るぞ。
今まで東映の時代劇映画を、とりわけ忠臣蔵映画をたくさん観てくれたみなさん、ありがとう。
5周年のときも観てくれてありがとう。
10周年の今年は、あれを観てくれた人の思いにも、これを観てくれた人の思いにも、ぜんぶ応えますよ。
……と、こういうことだったのではないか。
それというのも61年版の討ち入り直前、大石は46名の仲間を前に、次のようなことを言う。
これまで、かたがたには本当に苦労をかけ申した。
互いの立場や考え方の違いから、ときに深刻な対立を生み申した。
しかしその対立が、かえって互いの結束を固め、絆を深める結果となり申した。
この内蔵助、これまで生きて来て、この1年数ヶ月ほど生き甲斐を感じたことはありませんでしたぞ。
このように大石は、自分を含む47名の艱難辛苦を実に前向きに肯定して見せたのである。
まさに、「週刊少年ジャンプ」の努力・友情・勝利にもつながりかねない不滅の仲間意識。
何かここに、47士の艱難辛苦を何度も何度も描き、自らもまた艱難辛苦を乗り越えて映画を創ってきた当時の映画人たちでなければ到達できぬ「47士観」を、ビシビシと感じるのだ。
本当は赤穂浪士たちはどのような思いで討ち入りをしたのか、という大いなる謎に対する、この逆説的とも言える答え。
当たり前な答えを全的に無視・無化し、こんな逆説的な答えをあえて打ち出すのは、集大成を意図していたからだとしかすんどめには考えられないのだ。
なお、このように、大きく言って江戸時代から連綿と言い伝えられ、さまざまに形を変えることで物語が真に完成する過程をすんどめは「シェーンの誤謬」と呼び、世に提唱している。
詳しくはすんどめの小説『シェーンの誤謬』(Amazonの電子書籍として発行)をご熟読いただきたい。
いずれにせよ、集大成への強い意思の例証は、前述した市川右太衛門の市川右太衛門的演技だけにとどまらず、やはり、何と言ってもクライマックスであるところの、討ち入りそのものにありありと表れている。
他の作品で何度も見慣れているはずの討ち入りシーンなのに、本当に不思議なことに、新鮮な驚きを持ってしか見られない。
松方弘樹演じる大石主税の采配に応じて、すばらしいスピードで吉良邸の塀を駆け上がり、中から門の閂を外す手際の良さ。
暗闇の中から鎧戸をバゴーン!
と叩き壊し、ドカドカドカ!
と怒涛のように邸内へなだれ込む軍勢の迫力。
生まれて初めて討ち入りなどということをする人たちには到底見えない。
悪い意味での「慣れ」ではない。
逆だ。
よい意味で、まるでこれまで何度も討ち入りをしてきた人たちがその集大成として、自分たちの人生はこの時のためにあったとでも言わんかのような手際の良さで、ここぞとばかりに討ち入るのである。
まさに後の東映ヤクザ路線における、殴り込みのカタルシス。
あの瞬間、赤穂浪士を演じる役者たちは単に赤穂浪士ではなく、何度も忠臣蔵映画を観、また何度も忠臣蔵映画を創ってきた映画ファン・兼・映画人、つまりは役者自身に(語義矛盾をはらむが)なり切っているような印象を強烈に持たされる。
これまでの役者人生・映画人人生を集大成し、生涯最高の討ち入りをしようと燃えに燃えているとしか思われないのだ。
換言すれば、役者たち・スタッフたちのそうした忠臣蔵集大成への思いが、そのまま劇中の赤穂浪士たちに乗り移っているかのようなのだ。
むろん、すんどめの勝手な想像ではある。
ではあるのだが、いったん想像してしまうと本当にそうとしか思われないようなとてつもない説得力が、この想像には備わっている。
※
そう考えると、想像はさらに膨らむ。
なんでもWikipediaによれば、この61年の『赤穂浪士』以来、東映は、78年の『赤穂城断絶』(深作欣二監督、萬屋錦之助主演)までぱったりと忠臣蔵映画を創らなくなるという。
しかし、それは単なる結果論ではなく、実は初めから忠臣蔵映画の最後の作品にするつもりで、61年の『赤穂浪士』は撮られたのではないか、と想像されてならない。
60年代の幕開けとともに、実は日本では、いや少なくとも東映という会社においては、忠臣蔵映画の歴史はいったん終わっていたのでは、ないだろうか。
※
それにしても61年の『赤穂浪士』だけが、なぜこうも突出して神がかった脚本に恵まれたのであろう。
そう思って調べてみたところ、このときの脚本を担当したのは、黒澤明の脚本家チームの重鎮で一時期「日本一脚本料の高い脚本家」とまで言われた、小国英雄氏であったらしい。
(セリフはすべて記憶による引用であり、記憶が曖昧な部分についてはあえて現代語を入れるなど、正確さより分かりやすさを優先しました。)
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