学校に行かないという選択。「誰のものでもない何かの中で育っていく。」
我が家は、山にほど近い。
ありがたい事に、様々な自然に溢れている。
長男が、散策中に、「あのね、葡萄があるんだよね。あとアケビも。」と、秘密の場所に案内してくれた。
葡萄は色付くのを待っている様子で、工場の塀の外に迫り出している。
「誰かの葡萄なのかな?」
「でも、塀から出てるよ!」
確かに、誰かがお世話をしている様子はない。
それにしても、立派な葡萄だ。
もし、大事に育てているのだとしたら、食べたら悪いなぁ・・・。と思いつつ、味見程度に熟れた粒をいくつかいただいてみた。
「甘い!美味しい!酸っぱい!」
子どもたちは、大きな葡萄の一粒から、秋の到来を感じているようだった。
私が子どもの頃は、誰かのものでないものが、多く存在していた。
きっと、誰かの物だったのだろうが、大半の周りの大人たちは、〈こどもたちのやることだから〉〈たいして困ることにもならないから〉と、黙って見守っていてくれたのだろうと、今になってよく思い出す。
勝手にヘリポートの敷地に入り、ザリガニ釣りをしたり、
コスモス畑でかくれんぼしたり、
庭木の琵琶を、ビニール袋いっぱいに集め、友達と食べていた。
「これは誰かのものかもしれない」
確かにそうなのだけれど、〈所有〉とは、厄介だなと思う。
たくさんあるから、どうぞ。
少しだけど、分けようか。
社会が、大人が、そんな感じだと、大体、平和かと。
長男曰く、
「自然界のものは、土地も全部、元々、誰のものでもないでしょ。」
そんな謙虚な気持ちが、多くを所有する大人たちに必要かもしれないなぁ。
「自分たちの子ども時代は、周りの大人に静かに見守ってもらっていたのだ。」と、子どもたちが大人になった時、想いを馳せることが出来るといいなと思う。
そして、私も、地域の子どもたちを静かに見守れる大人として存在したい。
誰のものかもしれない、甘酸っぱい葡萄を頬張りながら、思うのだった。