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目の前に、ベーグルが「ひとつ」ありましたとさ。

3歳の末娘には、ご近所にお気に入りのベーグル屋さんがあります。

北海道産の小麦で、天然酵母で作っているお店です。

「粉のいい匂いがする♪」と、なかなかのコメントを述べる娘。

そして、何回訪れても、娘が買うのは、「プレーンベーグル」一択。

娘よ、潔いな。

先日も「ベーグル食べたいなぁ。」と言うので、買い物のついでに足を伸ばし、るんるんとベーグル屋さんに行きました。

さぁ♪ベーグル買うよ~♪とお店のドアを開けたら・・・

棚には、ひとつのチーズベーグルが、置かれていました。

他の棚を見回しても、他には見当たりません。

娘の大好きなプレーンベーグルも品切れです。

そろ~りと娘の顔を見たら、ニコニコして

「あ!見て!ひとつあったよ!良かったね!みんなでわけっこできるね!」と。

目の前の「ひとつのベーグル」

「ひとつあった!」と捉えるか、

「ひとつしかない・・・」と捉えるか。

よく例えられるお話で、「コップに半分入っている飲み物を見て、〈半分も入っている〉と思うか、〈半分しか入っていない〉と思うか」というものがありますね。

私は、「お~、今日は、ひとつしかないのかぁ。来るの遅かったもんなぁ。子どもたち、足りるかなぁ・・・」と思いました。

しかし、娘のことばに、目からウロコが落ちました。

落ちまくりました。

自分の捉え方の乏しさというか、なんというか。

娘の周りが彩り豊かに輝いて見えました。

いいなぁ。

そういう捉え方が、彼女の中には既に根付いているんだ。この世界に来て、まだ3年だというのに。

本当に羨ましい。

目からウロコが落ちた次の瞬間には、「あなたが私の娘であるのは、奇跡だ!」と思うまでに致り、親バカ全開で、心が揺さぶられたのでした。


同じものを見ても、ひとによって、感じ方は違う。

そして、目の前の景色の彩りは、捉え方によって変わってくるのでしょう。

娘の毎日みている景色は、私の想像など軽~く超え、見たこともない豊かな色合いで彩られているのかもしれない。

高校時代、家庭科の先生が授業の中で、突然、「一杯のかけそば」というお話の読み聞かせをはじめ、嗚咽を漏らして泣いていたことがありました。

私は、「お店の人が状況を察してサービスしてくれたこと」や「その家族の状況が好転し、子どもたちも成長し、年を追う毎に注文するかけ蕎麦の数が増えていくこと」に感動するよりも、「三人で一杯のかけ蕎麦しか注文できない状況」がもの凄く辛く感じ、やりきれない気持ちになったのを覚えています。(思春期花盛りの高校生としては、妙に冷静に、先生が泣くのは、どのあたりなのかなぁ・・・と考察したりもしていましたが。)

今、思うと、「物語そのものが辛い」というよりも、「重苦しい、どうにもならない貧しさに由来した拭いきれない暗い雰囲気」が嫌だったのだと思います。一応、ハッピーエンドということなのかもしれませんが、私の中では、重苦しい物語として記憶されてしまったのでした。

もし、もしも、娘が、3人でかけ蕎麦一杯しか頼めない状況でも、「やったね!かけ蕎麦食べられて良かったよね!しかも、なんか今日、盛りが多くない?!ラッキー!美味しいね~♪また食べにこようね!!!」と、物悲しいとか、暗いなどの雰囲気を一気にふっ飛ばし、るんるん♪と生きていくのだろうなぁ~。

ひとつのベーグルを嬉しそうに抱え、るんるんと足取り軽く、帰路につく娘を見ながらそんな風に思った午後でした。


学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!