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大人がつくってきた社会を嘆き、憂うときに。

知人がSNSで、「大人がつくってきたこの社会で子どもたちが我慢している」「大人がバカだからこんなことになってるのに」と嘆いていた。

私は、自分の子どもの頃をふりかえる機会が多い方だと思う。子どもたちが育っていく姿に重ねて、「自分の子どもの頃は、どうだったっけな・・・」とゆっくりと思い出すからだ。

言ってしまえば、私の子どもの頃も、大人たちはそんなに成熟していなかったと思うし、それは、今の時代と然程、変わらないと思っている。

大人、といっても、ひとくくりにできるはずもない。

どんな風にそこまでの過程を生きてきたのか、何を感じ、何を経験してきたのか。

ただ、ちょっとづつ生きている時間が長くなると、良くも悪くも、要領がよくなり、その場に合わせたり、思ってもいないことを言ったりすることが増えてしまうのかもしれない。

そうしているうちに、「自分は本当はどう感じているのか」がわからなくなり、「世の中の価値観が自分の価値観」といつの間にかすり替えられているのだが、気が付かない。いや、敢えて、気が付かないことにする、見ないふりをしてしまうのだろう。

今、「頭の悪い大人がつくった今の社会」があるとする。

その上で、今、自分に考えられることがあるとしたら、「じゃ、私は、どうする?」だと思う。

私は、その社会の構造に加担するのか、しないのか。

自分の中で何を優先するのか。

「自分以外の誰かを変えよう!」とか、「社会が変わればいいんだ!」と、若い頃は思っていた。それは、〈傲慢だった自分〉の姿を思い出すことに他ならない。そして、そういった事柄は、実際に、なかなかの無理難題なのだ。ヘタすると、単に、不満をそこにぶつけるだけで終わってしまう。

ちょっとだけ歳を重ね、それよりも近道があることを感じるようになった。

〈自分にとって一番身近な存在である「自分」は、「今」どうするの?〉を考え、動くことだ。動かないという選択も、またひとつある。

これは、遠回りしているようで、実は一番の近道だと思っている。自分のことは、ある程度、自分でなんとかできることが多い。

自分自身が社会に於いて、〈大人〉という括りになった今、子どもたちが、大人の在り方に嘆くならば、〈今〉私にできることはなんだ?と考えると、「じゃあ、一緒に考えよっか。」と、その嘆きを聴きながら、〈今できること〉を一緒に考えていくことだけではないかと思っている。

一緒に考える基盤をつくるには、ささやかな疑問をそのままにせず、「自分はどう感じるのか」「じゃあ、自分はどう行動するのか、敢えて動かないのか。」と積み重ねていくことが、どうしても避けられない。

あらゆる投げかけは、日常の中で、決して留まることを知らない波のように繰り返し、繰り返し、私を試すかのように決断を迫ってくる。

そして、そんなちいさな決断を繰り返す私を、子どもたちは、いつでも見ている。

その真っ直ぐな視線に、私はどう応えていくのか。

先を憂うより、今、できることをやりたい。

ちいさなことでも、今、できることをやろう。

子どもたちの未来を支える大人として生きるために。





学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!