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新・教育宣言!”教育デフレ”を乗り越える方法を学校教育から落ちこぼれたIT起業家が提案します #教師のバトン

こんにちは、トキワ(Twitter)です。だいぶ久々の投稿になります。

というのも前の事業からピボット(事業転換)して、ずっと学校向けのシステム開発のために、学校に出向いてヒアリングしたり、実証実験したり、それを開発に落とし込んだりしていたためです(その様子は教育新聞に掲載されました)。

しかもその過程で、宇都宮市にある星の杜中高(現・宇都宮海星女子)で2023年度から非常勤講師にもなることになり、もうどっぷり教育業界に足を入れています。

色んな人から「常盤さん教育に興味あったよね」と言われるのですが、僕はあまり意識してませんでした。でも確かに、拙著「悪者図鑑」とか読み返してみるとめっちゃ教育のことが書かれていました(例えば以下)。

悪者図鑑_ページ_057

教育業界に入ってこの約9か月と自分の人生を振り返ってみたり、今の教育業界を分析したり、自分にとっての「理想的な教育」を考えてみたり、そのまとめを「新・教育宣言」として今回投稿したいと思います。

★重要:なお、今回のこの記事は、所属している学校の代表としての意見や主張ではありませんのでご注意ください。

「日本の素晴らしい教育」が、いじめ、うつ、自殺をうみだす

まず簡単な自己紹介をしますと、私は小さいころ家庭で虐待と貧困を経験して育ちました。そこからガラケー・スマホを使ってGoogle検索で勉強し、勉強した内容をSNSに投稿し、色んな人と出会って、経済的にも精神的にも脱出することができました。

私は教育業界について全くの素人です。スマホを使い始めてからこの12年ぐらいずっと社会問題を研究したり、テクノロジー領域で学習・仕事をしていたりしました。(より詳細な自己紹介は以下です)

教育業界に入ってから、小中高の自分を振り返ってみましたが、学力は通知表でだいたい2-3ぐらい、中学ではいじめにあったり、仮病を使って家でテレビをみたりブックオフで立ち読みをしたり(準不登校)、高校生のとき自殺一歩手前まで精神的にかなり病んでしまい、学校を中途退学しました。(スマホによって人生が改善したのは中退したあとのことです。)

そういう意味では、学校教育から完全に落ちこぼれたわけです。

ではこういう人が例外だったのかというと、最近どんどん私みたいな子どもが増えてきているようです。(出典:文部科学省

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さらに、日本の子どもの自己肯定感が他の国より低く子どもの自殺者数が多いことは有名ですが、中学~高校生の3-4人に1人が中程度以上のうつ症状があることも分かっています。

他の国と比べても自殺の割合が高い(参考

もちろん日本の学校教育の良い面もあります。特に有名なのは、学力の国際比較(PISA)において2018年は下がったとはいえ比較的上のほうですし、99%の国民が読み書きができるのもすごいことです。他にも給食や掃除、登下校、部活などなど。

しかし、いじめ・不登校・うつ・自殺を無視できるほどに、そのプラス面は必死になって守る価値があるのでしょうか?

今の社会にとって学力・偏差値・学歴は大して必要ではない

さて、一方で社会のほうはどうでしょうか?

”1万歩譲って”学校教育で精神的に病んでしまうことを黙認したとしても、学力はじめ能力が高ければ仕事がうまくいって給料があがり、ひいては経済全体もよくなり、税収が増えて社会保障も充実し、結果的に心のセーフティネットも整備されるはずです。

しかしそういう状況にはなってないことがこの図で一発でわかると思います。賃金がまったくといっていいほど上がっていないのです。(最近になってやっと皆さん気づき始めましたよね、、、)

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私は社会人になってこのグラフを見た時に絶句しました。

※追記:長期的な賃金安であれば新興国と逆転して、インドのITや中国の工場のように日本に仕事を依頼する他国が出てくるでしょう。なので中途半端に短期・中期の賃金安だと問題です。また、「日本が安くなる」ことで外国資本が入ってくることに保守層は問題を感じます。

つまり、学校教育によって、学力を身に着けた人が、必ずしも社会を少しでも良くしていける人になるわけではない、ということです。

「社会はこれから良くなっていくんだ!」という人も中にはいるかもしれませんが、日本には大きな災害が2つ待ち受けています。

まず1つ目はデジタルトランスフォーメーション(DX)の波です。書店にいけばポジティブな意味で「どうすればDXできるか?」が陳列されていますが、DXによって自動化される仕事が増え、普通の企業からすれば仕事がなくなっていくことになります

そのDXは誰が行うのかと言えば、それは大企業ではなくスタートアップのほうが可能性が高いです。スタートアップが動きやすい理由も明確で、年々資金がどんどん流入してきているからです(出典:Uzabase)。その結果、一部のスタートアップに限られますが、年収が上場企業と同じぐらいになってきています

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すべての仕事がなくなるとは思いません。人に欲望やニーズがあってお金を払う限り、仕事は生まれます。しかしその新しい仕事ができるかどうかは労働者の努力次第です。最近のプログラマーやYoutuber(表現者)もその流れの一つです。

次に2つ目は南海トラフ地震と富士山噴火です。都市伝説でも陰謀論でもなんでもなく、かなり大真面目な話で、京都大学名誉教授の鎌田先生がよく説明されています

30年以内に70%の確率で南海トラフ地震が起きると言われており、そこから影響される形で富士山の噴火が連動して発生します。

以下は富士山の火山灰の飛散予測地域ですが、スマホや車が使えなくなるどころか、停電や断水、健康被害とあらゆる面で大変な状況になります

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おそらく火山灰によって東京と東京に関連する地域の経済活動が完全に冷え込むので、日本円が暴落して海外投資家が買い漁ったり、海外(特に中国)からの移民が大量に入ってきたりする可能性があります。強制的に「多様性」を意識することになります。

その他にも、少子高齢化による税金使途の制限や、中国による台湾への軍事侵攻リスク、環境問題による台風被害の深刻化なども懸念事項ですし、2050年には日本のGDPは世界で7位になるとの予測もあります(つまり海外の良い人・物がより手に入りづらくなり、国内の良い人・物がより外に出やすくなります)。

今の子どもの20-30年後(早ければ10-20年後)の社会の姿なのですが、はたして今の学校教育で今の子どもたちがそんな社会を生きていけるのでしょうか?

学校は社会と断絶された島宇宙。八方美人は誰も幸せにしない。

私は今の学校教育では、大多数の子どもが未来の社会で上手く生きていけないと思っています。その理由は、今起きているいじめや不登校、うつ、自殺の原因でもあります。

ではその理由は何かと言うと、教育における手段の目的化です。

そもそも手段の目的化とは何か?例えば「お金を稼ぐ」というのは「何かが欲しい」という目的のために行われる手段のはずですが、目的を忘れたり意識しない結果、手段の「お金を稼ぐ」ことだけをひたすら行うこと=目的化です。

では教育における手段の目的化とは何のことか確認していきましょう。

4教科(国語・算数・社会・理科)を学ぶ目的は何でしょうか?社会人としての教養ですか?それとも受験対策のための勉強ですか?

社会人としての教養だとしたらどれぐらい勉強したことを覚えてますか?その教養は「教養として」(何かの手段として)役にたってますか?

受験対策の勉強だとして望む学歴は手に入りましたか?その学歴によって良い企業に入れましたか?良い企業に入れて幸せですか?良い企業に入れたのは本当に学歴が一番の理由ですか?(あなたと同じ学歴の人があなたと同じレベルの企業に入ることができますか?)

たとえ学歴によって「良い企業」に入れたとしても、日本経済の悪い状況は明らかです。良い企業が存在したとしても、”高学歴”な政治家がうまく経済をもちなおすこともできていません。だから学歴を追ってもよくならないことは分かるはずです。

こんな感じで世の中に存在する多くのことは手段であり、何かの目的を達成するためにあるはずです。

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ではあなたの最終目的は何でしょうか?その目的にどれぐらい学校教育は貢献してきたでしょうか?

これは4教科に限りません。他の体育・美術・技術・家庭科や、「社会で必要だから」と言われて行われる英語やプログラミング、金融教育、性教育、STEAM教育、そして起業家教育も同じです。

例え「社会で必要」という目的があったとして、英語教育をうけた子どもたちは大人になって英語を使っているのでしょうか?使っていなかったとしても、グローバルな物の考え方をしているとか、外国人(欧米人だけではなく中国人や韓国人も)に対して寛容な気持ちを持っているのでしょうか?

例えば学校の多様性の現状でいえば、海外にルーツのある子どもの約8割はいじめにあっています。これでは英語で多様性を理解してるとは言い難いですね。

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たとえ英語が多様性を理解するためではなく、スキル開発が目的だったとしても「日本人の多くが英語を使える」という調査を探すほうが難しいですし、プログラミング教育も同じ末路をたどると思っています。

しかもプログラミング教育の場合危険なのは、時間がたてばたつほど既存の企業(Googleなど)が「多くの人とって必要かつ便利な機能」をどんどん開発していくことです。

今の高校生や大学生が3-6年後に社会にでるときには、まだプログラミング教育で知ったことが役に立つかもしれませんが、今の小学生や保育園児・幼稚園児が社会にでる10-20年後ははたしてどこまでプログラミングが必要かはわかりません。

もちろん天才的にプログラミングができることで宇宙やバイオなど最先端の開発を行う、ということであれば話は別ですが、公教育によって全員にプログラミング教育を行うのであれば、できるだけ多くの子どもたちにとって意味があるようにしなければいけません

目的が不明確で曖昧なままだと、手段は”八方美人”になっていきます。あれもこれも機能を追加して使いづらくなる日本製品のように。社会でこれが必要、あれが必要、とどんどん追加していくということです。

その結果、学校の先生はたくさんの仕事を抱えていて、過労死レベルとなっており、精神的に病んで休職したり、新しく先生になりたい先生がいなかったりするのが現状です。

この状況に対して何かイノベーティブな民間サービスがあればまだ希望がありますが、先日ビッグサイトで開催された教育総合展EDIXに参加したところ、大多数のサービスが既存の学校教育の延長でしかありませんでした。本当に絶望的な気持ちになりました。

さらに言えば、最近はYoutuberが4教科や他の知識を面白く・分かりやすく伝えています(私が調査した約60人のYoutuberを以下のスプレッドシートで紹介します)。元々は塾の先生はYoutuberみたいなものでしたが、もはや学校の先生が子どもたちに他の誰かよりも何か特別な知識を教えることができる、というのは勘違いかもしれません。

つまりまとめると、学校教育は手段が目的化していて、色んな知識を追加していく結果、生徒は何のために学ぶかもわからず、薄ーーく広い学びなのでどこまで覚えてるかもわからない状況で、自己肯定感が低いまま小中高大16年間を過ごし、社会問題とテクノロジーで荒れ果てた社会に急に放りだされることになります

そこで最近は「学びなおし(リカレント教育)」や「リスキリング」がポジティブに言われていて、プログラミング教室や大学へ入り直す人がいるのですが、その程度の学び直しならそもそも学校教育16年間の学習内容がちゃんと組まれていればいいだけ、と個人的には思います。

経済のデフレよりも恐ろしい「教育デフレ」

さてここでやっとこのnoteのタイトルにある「教育デフレ」について説明できそうです。

そもそも「デフレ」とは経済用語で「デフレーション」のことですが、その意味を簡単に説明するとこうです。

1、(何かの理由で)人々のお金がない
2、製品・サービスを買えない
3、企業が売れるように製品・サービスの価格を下げる
4、企業の売上が減って、社員の給料が減る
※1番に戻る。

日本では長らくこのデフレが起きており、先に紹介した賃金が上がらかった理由がこれです。(何かの理由で)の部分には色んなものが入ってきます。例えば労働市場の流動性が低いとか、イノベーションを起こして多くの人が買いたいサービスがないとか。

そして、これは経済だけではなく、教育にも影響していると私は思ったので「教育デフレ」として造語にしました。つまりこうです。

1、公教育の内容を決める政治家が未来に必要な教育が分からない。結果、的外れな教育内容を実施する。
2、保護者や学校は”的外れな教育”の必要性がよく分からずにに鵜のみにするが、子どもたちはその教育内容の必要性が分からない
3、器用な子は必要性が分からなくてもできてしまったり(テストの点数等)、必要な教育が何か分かってる親子は特殊な教育を受けたりする。その他の多くの子どもたちは劣等感を感じ始める
4、テストの点数が低かったり、偏差値・学歴が低かったり、そして自己肯定感が低かったりして、社会に出るも政治家に投票する気にもなれない(自分が社会を変えられるとは思わない)。
※1番に戻る。ずっとおじいちゃん政治家が未来の教育を決める。

教育によって行われるのは能力と心の発達です。その2つは相互連関していて、能力が上がれば自信もつき、自信がつけばより能力を伸ばしたいと思えるようになります。

逆に言えば、能力を伸ばせなければ自信はつかず、自信がつかなければ能力を伸ばそうと思いません。伸ばすべき能力に納得感や必要性を感じられないのが今の教育です。

教育によって得た知識や能力は、自分自身が幸せになるためにある

今回、私が取り上げた未来はテクノロジーと自然災害の2つだけですが、他にも多くの予測が色んな方から提起されています(アマゾンで「未来予測」と調べるとたくさんの本が出てきます)。

これらのリスクに加えて、個々人の幸せに対する価値観も多様化しています。例えば仕事はどれぐらいするのか、結婚はするのか、子どもはほしいのか、これだけでも色んなパターンが存在します(以下)。

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★いかにリスクを最小限におさえ、自分の幸せを実現するか。

★そのために社会で必要な能力・知識が、社会に出る前の場所としての学校で鍛えたり教えられたりできるのか

ここが重要になります。

それを図にまとめるとこんな感じになります。知識や能力をまず学校で最低限鍛えられて、社会にでてそれを実際に使うことでさらに鍛えられる。その知識や能力が鍛えられればられるほど幸福度が高くなる。もちろんそんな簡単ではないし、一直線でもないですが、コンセプトとしてはこういうことです。

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今の教育科目をすべて捨てよう、現代版リベラルアーツへ

未来の学校では何が求められるのかは、未来に必要な知識や能力が何かによって変わってきます。そしてその知識や能力の中心軸は「いかにリスクを最小限におさえ、自分の幸せを実現するか」です。そこで私が考える必要な知識や能力を「現代版リベラルアーツ」として提案します。

そもそもなぜ「リベラルアーツ(liberal arts)」という言葉を使うのか?リベラルアーツは日本語にすると「リベラル=自由」、「アーツ=技芸・技術」、つまり「自由の技術」となります。特に日本では「教養」としても言われます。

元々は古代ギリシャ・ローマの奴隷ではない市民のための基礎学問であり、文法学・修辞学・論理学・算術、幾何学、天文学、音楽の7つが当時は必要な知識・能力でした。

例えば当時の修辞学は、政治家の伝え方・スピーチですが、これを市民側が知っていれば自身も政治家として立候補できますし、逆に政治家から言葉の使い方で騙されることもなくなります。そういう意味で「(解放的な)自由(Liberal)」なのです。

教養というと「知識量」というイメージがあり、現代の変化の激しい社会で必要な知識があまりにも多く、今の学校現場のようにどんどん学ぶ内容を足していくことになりますが、元々の「技術(Arts)」に立ち返ると「知識量」ではないことが分かります実際に「教養」もググってみると知識量ではないことが分かります)。

おそらく本来は日本の4教科も日本の近代化とともに「技術」として学んでもらうために作られたのでしょう。思い起こせば国語の授業で文法を習ったり、数学の授業で論理学を習ったりします。

一方で、手段が目的化(形骸化)してしまったことで、テストの点数や偏差値のための科目となってしまいましたし、それが今・未来の社会で役に立ってるとは思いづらいのが現実です。

ちなみにリベラルアーツの7つの上位概念には神学と哲学が当時は存在していました。知識量と技術とも分けて考えると、こんな図になります。哲学とは「私は何のために生きるのか」という「幸福の基準」にもなりえます。

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そこで私が考える「現代版リベラルアーツ」、つまり今・未来の社会で必要な(優先度の高い)知識・能力を紹介します。

1つ目は、心理学/遺伝学/脳科学です。そもそも自分自身が人間であり、また社会を構成しているのもやはり人間である以上、「人間とはどんな生き物なのか」を知っておくことはあらゆる場面で重要です。(偶然ですがミネルバ大学でも心理学と脳科学を重視しているようです。

心理学で重要なのは「認知バイアスと非認知能力」。遺伝学で重要なのは「遺伝で決まる部分=多様性の理解や、決まらない部分=努力の可能性」。脳科学で重要なのは「理性の発達(各部位の発達)と感情のコントロール(ホルモンバランス)」です。

最近注目されているのが非認知能力ですが、学力のように計測しやすいものではない能力のことを言い、教育経済学(例、子どもに何を与えたら将来の賃金に影響があるのか)から多くの発見がうまれています。

有名な非認知能力は、自制心、勤勉性、誠実性、やり抜く力(GRIT)などです。非認知能力を鍛えることで学力があがっても、学力をあげることで非認知能力が鍛えられるわけではないとか、貧困層でも非認知能力があればその後うまく成長できるとか、と言われています。

しかし心理学の実験の再現性は蓋を開けてみると微妙なものもあるため注意が必要です(例えばGRITマシュマロテストについてこちら)。ただ、だからといって無視していいわけではなく、引き続き非認知能力に関する研究はどんどん進めていく必要があると思います。

また個人的には心理学と脳科学の掛け合わせで、非認知能力のなかでも特に自己肯定感を重視したいと思っています。なぜなら、そもそも自己肯定感がなければ、人間としての活力・気力が削がれている状態なので、これが病気になればうつですし、最悪自殺することになります。

どんな教育をおこなったとしても(例えそれがアクティブラーニングや最先端のSTEAM教育だとしても)、結果子どもにやる気がなかったり、やる気を削いだりしては意味がありません。常に子どもの自己肯定感を注視していく必要があります。(以下参考

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脳科学において重要なのは、地頭のよさや共感、幸せなどが脳の各部位と関係がありそうだということです。例えば前頭前野は思考力、扁桃体は共感、島皮質は幸せに関係します(島皮質はこちらの本がおすすめです)。

教育の内容(今の5教科)や方法(~~学習)は結局のところ脳の機能をどこまで向上させているかを一つの指標としてみる必要があります。もちろん体育など体の機能はまた別ですが、体育のやり方によっても脳への影響の度合いが変わってくるかもしれません。

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セラピラシス_認知行動療法_資料3

2つ目は農業です。別に百姓に戻りましょうとか、自分で食べるものは自分で育てられるように、というわけではありません。では何のためなのかというと4教科を実践で学ぶ方法になります。

一番分かりやすいのは理科でしょう。農業はあらゆる自然現象を相手にするのでその中で確実に理科を学ぶ必要が出てきます。数学も重要で、収穫量や面積の計算、さらに収穫物を販売するときのお金の計算も必要になります。

社会は歴史、地理、公民です。歴史は未来を考えるうえで必要で、過去にどんな収穫の危機があったのか、その危機の原因は何だったのか、その危機の影響はどんなだったのかを知れば、政治経済(公民)の勉強にもなります。地理はどんな場所にどんな作物が育つのかを知るのに重要です。

国語(+英語)は、まさに文法・修辞・論理の部分になりますが、作物の育て方の本を読んだり、チームで育成・収穫する中で自然と身につきます。収穫ができればすべての事象に対する感謝の気持ちも芽生えるでしょう。英語も一緒に学ぶことで、日本語の特徴をより強く理解することもできます。

3つ目は情報学です。これはもちろんインターネットに関わる技術や産業も含みます。例えば、農業や小売(EC)という産業で、IoTセンサー・ドローン・人工衛星・AIによるデータ分析を使うことです。さらに言えば遺伝子という情報を分析・編集することもありえます。

それから「情報をどう扱うか?」ということも含みます。情報の分類(集合論)、アルゴリズム(論理学)、信頼のある情報とはなにか(リテラシー)、AI機械学習による予測などなど。農業を補完する形で、より4教科の実践的な学習につながります。

ちなみにこれからの仕事で重要なのはManagement、Hospitality、Creativityと言われています。Managementとは「状況」に応じて必要な資源(人モノ金情報)を確保し運用することです。Hospitalityとは保育・介護・接客のようなあいまいな対人サービスのことです。

Creativityは後ほど説明しますが、つまりテクノロジーによって自動化しづらい部分なのです。農業と情報学によって自動化できる部分も学べますが、逆に自動化しづらい・DXできない部分も見えてくることになります

4つ目は演劇です。演劇は総合芸術であり、音楽や美術、舞台セットとして建築など駆使します。10歳までの非認知能力の発達において音楽と美術が重要であると中室牧子先生が言及しています

演劇の特徴としては全く別の人物になりきる、ということでもあります。これによって「この人だったらどう考えるのか」「どんな環境要因でこのような性格になるのか」という想像力を働かせる練習になり、コミュニケーション能力が大幅に向上します。

心理/遺伝/脳、農業、情報、演劇の4つをある程度理解できたら、5つ目はデザイン(設計)です。

デザインというと、何かオシャレなものとか、装飾が良いとか、プログラミングに対してWebサイトだとか思われがちですが、それはあくまでデザインの片面だけです。

デザイン(Design)は元々「計画を記号に表す」という意味で、そこから「設計」という意味になりました。例えば建物を建てるときには住む人にどんな建物にしてほしいかを確認したり(計画)、その要望を設計図や外観イメージにしたりします(記号に表す)。

他にもファッションなら、着る人の要望を聞いて(計画)、実際の服を作ります(記号)し、広告CMなら、企業に何を伝えたいのか聞いて(計画)、実際のCMの表現を考えたりします(記号)。なので結果的に「要望・課題・目的の解決・達成」という意味として使われることも多いです。

大事なのは、プログラミングや英語といった”手段だけ”ではなく、「人々の課題に対してどんな解決策を自分が持てるのか」であり、そこで初めて「価値」が生まれるのです。これを創造性(Creativity)と呼び、たとえ起業をしなくても、結果的に起業家精神(entrepreneurship)を得ることになります。

ただ要望を聞くのは何かしてほしい人だけではなく、建物なら景観を損なわないようにその周辺住民にも意見を聞く必要がありますし、自然環境に配慮する場合は周辺の動植物のことも調査する必要がでてきます。なので単に課題を解決する以上に「全体の調和」もデザインにおいて重要です。

お金を払う顧客を考慮する経済性と、それ以外の人たちを考慮する公共性が求められます。経済性を重視しすぎると大量生産・大量消費・大量廃棄のデザインを生み出し、公共性を重視しすぎると誰にとっても必要ではないデザインを生み出します。そういう意味で哲学的な思索が必要にもなります。

必ず人々のことを考慮するので、心理/遺伝/脳や演劇で学んだことが活きてきます。農業や情報学をとおして学んだ4教科も解決策の設計で必要になってきます。デザインから個人が得られることをまとめるとこんな感じです。

道徳:他人の課題に貢献する
社会:色んな課題があることで多様性を知る
哲学:課題の定義や原因などについて探究する
経済:仕事としてスキルを使って課題を解決する
工学:解決策の仕組みをより詳しく理解する
心理
 「歯車仕事」ではなく当事者意識(自分事化)を持てる
 スキルがあることで有用感を感じる
 他人からの感謝を得る

子どもたちには自分自身の趣味や興味に詳しくなってもらいます。例えばゲームやマンガが趣味なのであれば、その定義や歴史、作り方、課題、可能性を知ってもらいます。

そこから身の回りの人の課題をゲームやマンガで解決できれば、子どもの趣味や興味をつぶすことなく社会と接続することができるのです。最近ではゲーミフィケーションやメタバースなど、ゲームから利用できるものは多岐にわたります。

趣味・興味、スキル、課題の関係を最もうまく説明しているのがこの「生きがい(Ikigai)マップ」です。人の成長はどこからでも可能です。

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趣味や興味から仕事のスキルにすることは可能です。私も社会人になって初めて知りましたが、実際の仕事では様々な職種の人がいます。これらのどれかには当てはまります。何もエンジニアや英語だけが仕事になるわけではありません。

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「いかにリスクを最小限におさえ、自分の幸せを実現するか」が大事と書きましたが、この「自分の幸せ」を子どもの「趣味や興味」と言い換えても良いです。

このように子どもたちがすでに持っている「目的」、つまり子どもたちの幸せ・趣味・興味をいかすことで、自己肯定感は育まれ、スキルとして昇華し、すべての教育内容は「目的のための手段」になるのです。

今「やりたいことが分からない」若者がとても多いですが、それは手段が目的化された教育によって趣味や興味がつぶされてきたからで、本来は持っているはずです。

心理/遺伝/脳、農業、情報、演劇、デザインを5科目にすると将来の学校の「先生」がやることは大きく変わります。

先生たちはそのままで十分「先生」なのだ、未来の学校の姿

そもそも学校に求める機能とはなんでしょうか?

社会に出る前の準備期間、読み書きなど最低限の知識を得る場所、親が仕事をしている間の託児所、様々な家庭環境の子どもが集まる社会の縮図、その関わりの中で得る道徳、、、などなど。

最近は不登校の子どもや、通信制高校に通う子どもが増えました。その結果、今まで以上に学校の必要性が見直されているでしょう。私も大して学校に行ってなかったのでその子どもたちの気持ちがよくわかります。

私の学校への大きな違和感は、同じ年の子どもとしか友達にならず、社会を経験していない先生から、教科書に書いてあることを教えてもらうことにあります。

つまり私にとっての理想の学校とはこうです。

・年齢や性別ではなく、趣味や興味でマッチングさせる
・他のコミュニティにいつでも行ったり来たりできる
・お互いに分からないことがあれば必ず教え合う
先生は趣味や興味の先にある業界の方で、コーチング、メンタリング、ディレクション、ファシリテーション、コーディネート、コンシェルジュを重視。
・最初の学びは常に実践から(調査も実践)。それで分からないなら調べる。
・学校以外の時間は基本的に寮生活(貧困・虐待の対策と自立支援)
・大事なのは、常に社会を意識、文理融合、課題解決

現在、小中高(大)に12(16)年間かかっていますが、それだけあれば子どもの趣味や興味を”軸に”自由に学んだほうが効率がいいと思っています。その軸がなければもちろん怠ける可能性は高いでしょう。

実践的に学ぶため、ほぼ仕事に近いです。ただお金をたくさん稼ぐわけではないので仕事ではありません。研修というものはありますが、仕事は基本的に教わって行うものではなく、考えながら行うもので、分からないときに上司に聞くわけです

子どもの学びもそれでいいと思います。上司=先生は子どもが分からなかったり躓いたりしているときにサポートすればいいのです。

これを最近のカタカナでいうと、コーチング、メンタリング、ディレクション、ファシリテーション、コーディネート、コンシェルジュと呼びます。

褒め方もかなり重要です。テストで80点をとったとしても、能力・結果を褒める(例「頭がいいんだね」)とその後成績が下がり、一方で努力・工夫・過程を褒める(例「よく頑張ったね」)とその後成績が上がる、という実験があります(コロンビア大学スタンフォード大学ハーバード大学)。

私自身も変に地頭がよかったので、小中高のとき何かと「頭がいいね」と言われていましたが、「頭がいい」ことに固執して表面的な頭の良さばかりを考えてプライドが高くなっていたのですごく納得感があります。

先生となる人は最低限これらの方法を学ぶ必要はありますが、基本的にはどこかの業界の専門家であるはずなので、犯罪者や道徳を欠如している人でなければ誰でも先生になれると思っています

「先生はそんなに簡単じゃない」と言われるかもしれません。しかし現状の「先生」では学校(いじめ等)でも社会(低い賃金等)でも問題が起きていることは先に説明したとおりです。

教員免許の試験内容も、時代とともに様々な科学的な実験によって新しいことが分かっているため、それとともにアップデートしていくべきです。私はそれをEvidence Based Education Design(EBED:根拠に基づいた教育デザイン)と呼んでいます。

根拠から考えると様々な「価値がありそうだと思われる教育手法」はどこまで本当に価値があるのでしょうか?

例えばモンテッソーリやイエナプランなど、その教育手法によって子どもが優秀になったのか、それとも元々優秀な遺伝子を持った子とその親の経済力によって選択肢を得ただけではないのか?と思うわけです。

実際、「子育ての大誤解」という行動遺伝学の本では本当に影響があるのは遺伝と非共有環境(友達関係など)だけで、親による教育(兄弟姉妹と共有する共有環境)はあまり影響がない、と言われています。

教育経済学の知見でも、進学校によって子どもが優秀になるのではなく、優秀な子どもが進学校に行ってるだけで、進学校は友達関係をよくする以上の価値はなさそうだということも分かっています。

そう考えた時に私が重要だと思うのは以下3つです。

1、悪い影響を与えない(虐待や親による強制など)
2、子どもにはあらゆる選択肢にアクセスできるようにする
3、遺伝子などの個性が結果的に選択肢を選び、そのコミュニティで生き生きと生きていく(もちろん他のコミュニティに移動してもいい)

最後に、私自身はどうしていくのか

書いてたらいつの間にか1万字を超えてしまいましたが、これでもそれぞれ薄く書いてるのでどこかのタイミングでそれぞれピックアップして1記事ずつ書いていくと思います。

また、ここまで書いたことは教育が専門ではない人の戯言、妄想、フィクションぐらいに思ってもらえますとありがたいです。

私自身も、こんな科目を政府や文科省がすぐにやるとは思っていませんし、たとえ私が学校をつくってこの科目にしたとしても保護者がたくさん集まってくるとも思っていません。

ただ一方で、私は10年間、テクノロジー業界で仕事をし、社会問題の研究をして出版まで行いました。30代は教育業界で仕事をし、経済学の研究をしていこうと思っています。

それに現状の生徒の自己肯定感の低さや、社会人になったときの低すぎるスキルと高い奨学金についてはやっぱりどうにかしたいと思っています。先生の仕事の多さにも強い問題意識をもっていて、もし先生が今ほど忙しくなければもっと自分は構ってもらえただろうとも思っています。

最初にも書きましたが、先生がコーチングに時間を使えるように仕事の負荷を下げるため、IT起業家として「学校変革システム」の開発をしていますし、生徒の興味や関心ファーストで社会に出られるように「デザイン教育」を来年度から週1時間行っていきます。

やっぱり今まだ希望が持てるのは(1)新型コロナウィルスと教員不足による外圧、(2)プログラミング教育・大学入試改革・新学習指導要領・GIGAスクールの変化、(3)総合型選抜&探究学習&非認知能力の流行、です。逆に言えば今何もできなければ今後チャンスはないと思っています。

経済学の研究は、教育経済学もそうですが、政策によって人々が本当によくなったのかという因果関係(EBPM:evidence based policy making)の研究をしていきたいです。そのプロトタイプとして以下のようなマップも作っています。

なんとかして将来起きるかもしれない大災害のときに、少しでも生き残れる人を増やしていきたいです。切実に。

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