教育の最大の問題は、格差でも過労死でも自己肯定感でもない
こんにちは、トキワです(Twitter:etokiwa999)。
2021年6月に教育関係者にヒアリングを開始し、これまで学校は公立私立含めて40校以上ヒアリングし、私自身もITプロダクトを開発したり、ギフテッド傾向の子どもの支援をしたり、来年度から講師になる学校の入試審査をしたり、1年半がっつり教育業界に関わってきました。
そのおかげで、当初教育の大きな問題だと思っていたものが、実はあくまで表面的なものであり、実はその裏にさらなるラスボス、裏番長(死語)がいたことを最近知りました。
今回分かったことは、学校の管理職や、教育業界の有名人、Edtech大手の事業責任者などに聞かなければ分からなかったことです。
賛成反対あると思いますし、「こんなの嘘だ」と切り捨ててもっといい分析を解決策を提案してくれるなら本当にありがたいですが、これから教育業界でビジネスをやりたい方に少しでも参考になれば幸いです。
※画像は学校の体育館裏のラスボスイメージです笑
格差も労働時間も自己肯定感も、ただの表面的な問題だった
まずよく言われる教育の問題について紹介します。これらを解決すれば他の教育問題も一緒に解決されるような、根本的な問題として取り上げられてきました。
(1)教育格差
一番分かりやすいのは貧困の連鎖です。親が貧困層だと、塾や私立進学など教育費をかけることができず、その結果最終学歴は低くなり、就職も不利になり、子どもが親になっても貧困のままなので、さらにその子どもにも影響する、というものです。
少し前に「相対的貧困」が有名になりました。子どもの7人に1人が貧困状態にあるという話です。私自身も他の様々な格差を研究しています(詳細)。
もし格差が解消されるなら、すべての子どもに良い教育が提供されるということです。そうすれば社会に出る時に、みんなが同じスタートラインに立てるでしょう。
(2)過労死ラインで働く先生
次によく言われるのは先生の過剰労働でしょう。元々あった膨大な紙業務や部活の指導だけでなく、保護者の対応(電話・クレーム)、新型コロナウイルスへの対応(消毒やリモート対応等)でさらに仕事が増えました。
結果、先生の労働時間は過労死ラインを超えていると言われ(詳細、詳細2)、その影響か、先生になりたい人は地域によっては1倍台、酷い場合はついに1倍を切ってしまいました(詳細)。
仕事がブラック→人が足らなくなる→さらに仕事がブラックになる、という悪循環に入ってしまいました。
もし労働時間が改善されるなら、先生は子ども一人一人の面倒を見ることができ、結果子どもたちへの教育の質は向上されるでしょう。
(3)子どもの低い自己肯定感
3つ目によく言われるのがこれです。私自身も高校のときよく「死にたい」と思っており、うつ状態になっていたのでよく分かります。
有名なのは内閣府と日本財団の調査ですが、欧米だけでなくアジア諸国と比べても低いです。
自己肯定感の低さによってなのか、自殺やうつが多いことは不気味に感じます。
もし自己肯定感が改善されるなら、勉強への意欲が高まり、貧困でも何とか頑張ってみようとなり、少しでも学力があがって高い学歴にもつながるかもしれません。
これら3つの問題だけでなく、ブラック校則や体罰、不登校、いじめ、スクールカースト、モンスターペアレント、学歴主義、社会で必要な知識との乖離、受験や大学の学費増、外国人や境界知能の子どもへの対応など、多岐にわたります。
しかし、今回の私の言いたいことは、実はこれらの問題はあくまでとても表面的なものであり、実はその裏にもっと根本的な問題があったのだ、ということです。
それ自体を解決しなければ、教育格差も、労働時間も、自己肯定感も、改善されないません。
逆に言えば、その本当の根本的な問題を解決しなければ、教育格差や労働時間にどんな解決策を持ってきても、少ししか改善しないか、改善したところで別の問題が生まれてしまいます。
これらに対する思いつきがちな表面的な解決策
例えば教育格差に対しては、安くて質のいい教育をNPOで提供しようとなるかもしれません。
もしくは良い教育を提供して、財団・基金を作って、借金ではない奨学金を提供しようとなるかもしれません。
これらの解決策は間違いです。
また先生の労働時間についても、紙の業務をデジタル化したり、部活指導を地域に移行させたり、ということが解決策として実際行われていますが、それも間違いです。
自己肯定感の解決策としては、まずいじめをなくし、本人と対話をして気持ちをしっかり理解する、褒めてあげる、ということがあるでしょう。
残念ながらこれも間違いです。
なぜ間違いなのか?それはそもそもその問題が生まれる原因が全然違うからです。
教育格差の原因は、お金がないからだと勘違いされていますし、先生の労働時間は非効率的で人手不足だと勘違いされていますし、自己肯定感が低い原因は誰か悪い人がいて居場所がないからだと勘違いされています。
もちろんそれも問題の原因の一つではあるのですが、根本的な原因でありません。
教育問題の裏のラスボスは「とても真面目な人」
じゃあ本当の問題は何なのか?何を解決しないといけないのか?
もっと大事な問いは、なぜここまでずっとこれらの問題が残り続けてきたのか?
根本的な問題をまず一言でいうと「ラスボスは真面目な人」です。
教育格差も、労働時間も、子どもの自己肯定感も、最終的にはこれが原因になっていきます。一つずつ説明します。
まず教育格差の1つ奥にある原因は(ひたすら奥に進んでいきます笑)、評価基準が単一で、多様ではないことにあります。例えばテストの点数だけで良い悪いを評価するということです。
そもそも遺伝によって数学や音楽、知能などがある程度決まってしまうことが分かっているので、その時点で格差は決まってしまいます。しかし、知的好奇心の高さや、体型など、環境を変えれば評価される「遺伝的な特徴」はあります。
もし評価が多様なら、この子はスポーツができればOK、スポーツの中でも球技、球技の中でもサッカー、サッカーの中でもドリブルやチームワーク、とひたすら細分化して、何か一つに強みがあれば良いとなります。
何か一つに強みがあれば良いなら他に比べる子どもはどんどん少なくなっていきます。受験戦争では全国の同い年と比較しますが、サッカーのドリブルだけならそれよりはとても少なくなります。
少なくなっても「ドリブル格差」と言われるかもしれませんが、大事なのは個性とは掛け合わせなので、ドリブルと優しさがあったり、チームワークとお金稼ぎができたり、複数持ち合わせてるとさらに比較できる子どもが少なくなります。
子どもの自己肯定感も多様な評価基準があれば改善されます。自分の強みが分かっていれば、みんなと同じ基準で比較しなくて済み、自分の存在価値を自分で認めることができたり、尊敬する人に改善点を指摘してもらえます。
自己肯定感はマイナス(誰かに傷つけられる等)がないことよりも、プラスがあること(強みや趣味で活躍できる等)が重要です。
これは先生の労働時間にも大きく関わってきますが、少し分かりづらいので、これも図解します。
生徒の評価基準が「学力」であり、その「大きな広い基礎の学力」をつけるためにはやることがとても多いのです。
言葉を読める・書ける・話せる・聞ける(国語と英語で2倍)、何でも計算できる、社会・自然現象を知ってる、さらに料理も作れて、お金も扱えて、Webサイトやアプリも作れて、芸術的で品性もあって、体力も最低限あって、好きな子には放課後も支援する(部活)。これが今の学力です。
少なくとも教科ごとに先生がいたとしても、それは専門的な仕事ではなく、あくまで仕事の一つでしかなく、他の学力を高めるための部活や行事、その環境づくりのための清掃や消毒も必要になります。
だからどんなに紙がなくなっても、どんなに人が増えても、部活をなくしても、「大きな広い基礎の学力」に必要なものが増えれば、仕事はさらに増えていきます。基礎にどんどん積まれていきます。
ちなみに多様な評価基準があれば、競争が生まれて学校が多様化します。
競争は、「あの学校がAAAをするなら、うちはBBBをして対抗する」のようなお互いに改善をしあっていくことです。
改善しあっていれば、結果的に多様な評価基準ごとに学校ができます。
学校は持ってるリソース(お金や人材)をその細分化された評価基準のなかで集中することができます。
例えばとあるアニメのように、サッカーのストライカーのみを育成することに特化すれば、広い学力を高める私立学校と同じ1億円を持ってても、優秀なストライカーを育てることにだけ1億円を使えば、その私立学校よりはいいストライカーが生まれることでしょう。
もしどこかの学校がストライカーに特化すると決めれば、他の学校はキーパーに特化するかもしれませんし、他の学校はミッドフィルダーに特化するかもしれません。リソースは有限なので、何かに最適化したほうが効率的なのです。
逆に言うと、競争が起きないということはサービスが改善されない、ということです。資本主義のいいところは、競争によってサービスを改善せざるを得なくなることです。
「サービスの改善」というのは例えば、ストライカーになりたいサッカー少年は、ストライカーを育成してくれる学校にいきたいでしょうから、そのような学校が生まれれば「サービスが改善」されたことになります。
何かに集中して尖ったサービスはプロモーション(宣伝)をするときにも目立ちやすくなります。返さなくていい奨学金を設立しても、ちゃんと貧困層に知ってもらえる可能性は上がります。
ではなぜ学校は資源の選択と集中をしないのか?
それは「鶏と卵問題」ですが2つの側面があります。
鶏と卵とは学校(サービス提供者)と保護者(消費者)のことです。
勇気ある学校がお客が全然集まるかも分からない新しいサービスを始めることで、保護者がそのサービスを選ぶかもしれません。
もしくは保護者が学校に対して「こういうサービスがほしい」と普段から言うことで、学校側が「それならやってみよう」と新しいサービスを提供するかもしれません。
その結果、新しいサービスを始めた学校は他の学校より先に、そのサービスにおいて資源を集中的に使うことができ、良い人材も集まってくることになります。つまり目的を持つということです。
逆に言えば、学校も保護者も何がいいサービスなのか分からないし、考えていたとしても行動にうつすことが怖いと感じているかもしれません。
学校のビジネスが他のビジネスと大きく違うのが、子どもにとっての良い教育は子どもが大人になったときにしか分からない、ということです。
その結果、どんな学習サービスを提供するかというと、すでに社会で実績・成果の上がっているものを採用する、ということです。そしてそれを採用する人というのが「真面目な人」ということです(前例主義)。
この真面目な人というのは、私立の校長でもいいですし、文科省の偉い人でもいいでしょう。
最近とても分かりやすい前例主義は、「グローバル化・国際コース」です。「~~国際学園」が都内に乱立しています。
実はグローバル人材という言葉が出てきたのは2000年代前半で、それからもう20年もたっています(参考)。
少し古いデータですが、海外勤務経験がある人は2013年から2015年にかけて13%も増加しています。仕事だけではないですが、海外在留邦人数も増加傾向です(参考)。
おそらく今の保護者の世代のなかで、海外勤務によって出世などしていい思いをした人がいるのでしょう。それは保護者自身かもしれませんし、保護者の同僚かもしれません。
その影響からか、2011年から小学校5-6年生で英語が必修になりました(参考)。ただそれでは足りなかったからか、最近は留学の促進や4技能の習得など様々な対策が練られています。
別に海外勤務や海外留学が悪いとは思いません。それまでの人生とは全く違う環境を経験することは私もやったことがあるので大事だと思います。
一方で、前例主義と教育が、私にとって水と油のように感じるのは、過去と未来は大きく違うことが予測できるからです。高度成長期の製造業の時代は良かったかもしれませんが、今はAIテクノロジーの時代です。
「スキルとしての英語」でいえば、ポケトークやDeepLの翻訳精度がかなり高くなっていますし、近年では大言語モデルをベースにしたChatGPTも話題になりました。私の予測ではスキルとしての英語は不要になります。
そして近年学校教育に導入されたプログラミング教育も完全に前例主義の影響ですが、プログラミングも残念ながら、将来不要になる可能性が高いです。全部ではないですが、今の半分になるという予測もあります(参考)。
結構長くなったので、まとめます。
真面目な人が前例主義で社会で実績・成果のあるものを教育に採用する
学校も保護者も主体性なくそのまま鵜吞みにする、目的なし
どの学校も保護者も遅かれ早かれ同じことを行い、資源の選択と集中がない
学校のサービスに違いがなく、競争が起きない、結果教育サービスは改善されない
多様なサービス=多様な評価基準がないため、学校には独自の強みや目的がなく、以下が起きます
教育格差(英語教育なら英語ができるかどうかだけ)
労働時間の増加(ひたすら何でもやるしかないし業務効率化しない、そこにお金もかけない)
自己肯定感の低下が起きる
真面目な人はここで言うでしょう。「AIの発展の仕方なんて予測できない、それはVUCAだ。だから子どもには自分で問題解決できる能力をつけてもらう」と。
はっきり言って、私にとってこれは完全に言い訳です。
例えば「真面目な人」が1995年にプログラミングを勉強したり、ニューラルネットワークを勉強したり、ムーアの法則からどうなっていくのか少しでも考えてみたりすれば、iPhoneの登場やChatGPTの精度まで予測できなくても、今の教育とは絶対もっと違ったはずです。
最近はハイプサイクルなど予測のために色んな有識者が自分の意見をネット上に共有しています。それらを自分で手や足を動かして勉強しているのでしょうか?
これが私にとっての教育の本質的な問題です。
※ここまで書きましたが、実は最近の学校は昔よりは多様化しています、という記事を以前書きました(以下)。それでもまだまだ実績を出してない学校も多いため、多数派の私立・公立学校が改善するための行動をとっているわけではないでしょう。
保護者と学校ではなく、変態的天才と子どもが学びを決める
とてもシンプルです。先述の問題点を全部逆にすればいいのです。
真面目に見えない変態的に頭の良い人が、社会で実績はまだ出てないけど最近生まれた新しいテクノロジーが当たり前になった社会を予測する
そこから逆算して必要な多くの知識や技術が何かを洗い出す
学校や保護者ではなく、子どもがその中で自分にとって必要なもの、興味のあるを選ぶ。それを学びの目的とする。
学校や保護者は子どものニーズに耳を傾け、個別の子どものニーズにあった学習環境を整える。そのために必要なお金と人を集めて、資源の集中と選択を行う。
多様なサービスと評価基準が生まれて、
格差ではなく幅(多様性)が生まれる
先生(人材)の労働時間も能力も最適化される
子ども自身の興味のあることができて、やる気やワクワク感が生まれる
変態的に頭がいい人とはどんな人かというと、例えばチームラボ代表の猪子さんです。知ってる人は「あーたしかに」となるでしょう笑。
ちなみに私の理想はこちらに書きました。ただし残念ながらこんな理想は今後ずっと成り立たないでしょう。私は今そう思っています。
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