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都会の自由と多様性

多様性を大事なものだと考える人は増えています。そして、都会は田舎に比べると多様性があります。人数から考えても間違いないでしょう。

僕が生まれ住んでいた東京都小金井市は人口12万人を超えていて、いま住んでいる西粟倉村は人口1400を下回ります。人口密度にすると480倍違う。同じ面積に480倍の人間がいれば、その中にいる人間の多様性というのはまず間違いなく高まるはず。

でも、個々人としては、田舎の方が多様性に触れる機会が多い可能性はあるなと考えています。絶対に多い!と言うつもりは微塵もないですが。でもちょっとスゴくないですか、人口密度480倍ちがうところで、人が少ないところのほうが多様性に触れる可能性があり得るの。

都会は自分の興味関心などに応じたコミュニティをつくる自由があるというのは前に書いた通りです。田舎のインフラは人間によって支えられる側面があり、その結果として人が前面に現れます。都市のインフラはそこをシステムが賄うので、関係性からの自由がある。

ライフスタイルにもよるでしょうが、僕の東京での1日を考えると、何らかのシステムとしての人間(店員さんとか)か、身内や友人など自分が選んだ人間としか話をしない日が多かったです。人間は都市の背景に溶け込んでいるので、相手にする存在として浮き出てこない。

西粟倉には溶け込める背景はあまりありません。人口1400人ですから。店員さんや業者さんはだいたい「○○さんの親戚」「○○さんと同級」みたいになる。そして誰か見かけたら、知らないひとでも挨拶する。「挨拶する機会が増えたな」は村で最初に感じたことのひとつです。

東京は個人の自由により接する人間が指定され、村では地理的条件により接する人間が指定される、という感じです。もちろんどちらもグラデーションなので、それだけしかない!とは決して言えないですが。

ある一定の興味関心の中では都会のほうが接する人間の幅は多いです。しかし、ある個人が接する人間の中での興味関心の幅を考えると、田舎のほうが広い可能性が全然ある…という印象なんです。属するコミュニティを選ばない分、多様性のダイナミックさがある。

ちょっと分かりづらいですね。

  • 都会で暮らすAさんは、自分の好きな○○について語る友人を100人もっています。一方で、それ以外の人間と接する機会は少ないです。

  • 田舎で暮らすBさんは、○○について語る友人は少ないです。一方で、接する人たちは多種多様な属性や興味関心を持つひとばかりです。

…みたいな話なんですが、伝わりますでしょうか。僕は村に来たことでボードゲームをする仲間の数は減りましたが、たぶん都会では76歳の方から塗料の良し悪しについての解説を受けたり、5歳の方から折り紙との向き合い方を学ぶこともありませんでした。

都会で生まれ育ったひとだと、小学校(特に公立)から大学に進むにつれて周囲の環境が変わっていくことありませんか?それがちょっと相似形なんじゃないかと思っています(下図参照)。

たぶん小学校なんかがもっともいろんな人と接する場所で、高校とかに進むにつれて似たような人間が周りに増えていって、でも人間が増えるにつれてその一定の方向のなかでいろんな人間がいるのだな…と理解するようになって。どちらも多様性があるのですが、趣が違う。

そんなわけで、総体としての多様性はやはり都会が圧倒的だと思うんですが、個々人が触れる多様性の激しさみたいなところでいうと、田舎もかなり面白いよね…という話でした。

東京にいたら触れなかっただろう世界がぐっと広がっています。



なんでこんなことを考えているのかというと、村で暮らしていると「田舎で暮らすのはやっぱり大変だよね」みたいな反応をもらうことがあり、そこには田舎は多様性に不寛容だという文脈があるんですよね。そして、別に都会が寛容なわけでもないだろう…という違和感が僕にはぬぐえないんです。

人間を背景として塗りつぶすことで達成された(側面のある)多様性なるものを武器としている都会のひとが、リアルな暮らしのなかであらゆる人間と向き合わざるを得ない場所で外れ値や新しいものの受容を躊躇う田舎のひとを嘲笑するのは、どうも納得がいかないというか。

なんかこれ書いてるとなんだかどうも怒ってる雰囲気が出ちゃいますね。おかしい。僕はストレートな日本人男性で、別に貧困の中で育ったとかいうわけでもないし属性的にはわりと多数派なんですが、性格的に難があり少数派になりがちです。だからかな、こういうの気になるんですよね。

そこにいるひとの問題じゃない(問題とは限らない)だろ、っていう。

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