鯛 called my name.

疲れた帰り道にスーパーに寄ると、まるでオアシスのない砂漠に放り出されたような気分になるときはないか。

すべてを出し尽くした日中、判断力も決断力も仕事に注ぎ尽くしてしまった。夕飯になにを食べるか。作るならなるべく簡単、だけど美味しいものを……わがままな願望を叶える献立を思いつく頭の容量は残っていない。そんな日は、スーパーの陳列棚のコーナーからコーナーをさまよい歩くゾンビとなる。店内はもので溢れているのに、本当にこんなもので一日の終わりを満たせるか?という疑問が浮かび商品を手に取ってもすぐ棚に戻す。大人になっても自分の欲しいものがわからない。絶望的な気分で泣きそうだ。

そんなとき、私を呼ぶ声がする。どうやら鮮魚売り場からだ。導かれるように他のブースよりも温度の低いその場所に足を向けると、彼女はいた。オアシスの女神。またの名を、鯛。透き通る肌に桃色の脂身をうっすらと乗せたふくよかな切り身の体をプラスチック製の容器にそっと横たえて、彼女は私の名を呼んでいた。あなたを救ってあげる……と言わんばかりに598円の値札を掲げて。かの高貴な方がなぜこのような地方の場末スーパーに身をやつしているのです、という言葉を喉に押し込め震える手を伸ばし買い物かごにそっと収める。時たまこのような破格の出会いがあるのが我が街。サンキュー港町、私はこの街が好きだ。

もう疲れは吹き飛んでいた。頭の中は鯛をどうやって食べようかということでいっぱいだった。足早に家に帰り、身支度もそこそこにまな板の上に立つ頃には、やはりスタンダードに刺身で鯛を味わおうと腹が決まっていた。鯛を迎える前に、小皿の裏で包丁を研ぐ。このやり方だと簡単に包丁が切れやすくなりますと昔グッチ裕三が言っていた。

まな板に鯛を横たえる。10代の感性のように切れやすくなった包丁で、すっ、と包丁をななめに入れていく。包丁の鈍色が鯛の切り身の向こうに薄く透けて見える。桃色の脂身の部分に包丁が当たるとコリ、という感触がある。鯛とともに買ったしそを青い丸皿に並べ、その上に刺身を重ねるようにして盛り付けていく。冷蔵庫で干からびかけていたレモンもざく切りにして載せる。朝の残りのなめこと豆腐とわかめのお味噌汁、冷凍ご飯をあたため器に盛る。そして刺身醤油……テーブルにすべてを並び終えた午後8時、宴の始まりだ。

まず味噌汁を飲んで気持ちを落ち着ける。そして、ごはんと味噌汁のほかほか湯気ヴェールの向こうにいる鯛に箸を伸ばす。気が大きくなっているので二切れまとめて醤油をちょとつけ口に入れると、しっとり身が引き締まり、コリッとふわっが同居する鯛の食感。淡白なのに甘い脂の味がじんわり……う、うますぎる。鯛の味が消えないうちにご飯を頬張り、味噌汁で飲みくだす。鯛、ごはん、味噌汁……鯛、鯛、味噌汁、鯛、ごはん……

すっかりお腹いっぱいになってもまだ鯛がお皿にいる。しかし満腹で無理に食べ続けることは鯛に失礼だ。ベストに美味しいと思える状態で味わいたい。そこで妙案を思いつく。明日の朝、出汁茶漬けにしよう。
そして鯛はめんつゆとみりんを振られ、再びひんやりとした場所に身を置くことになった。

新しい朝が来た。希望の朝だ。
楽しみがあるということは、物事の始まりを肯定できるということだ。昨日の夜のうちにとっておいた出汁を火にかけて、香りを部屋の中に満たしていく。窓から差し込む朝日に照らされて、鍋の中の出汁は黄金に輝いていた。そして、私は冷蔵庫の鯛のことを思う。
子どもの頃、「出汁は沸騰させるな! 」と祖母にきつくしつけられたものだが、鯛にはあつあつの出汁をかけてあげたい。冷蔵庫の中でひえひえになった体を暖めてあげたいではないか。鍋の中の出汁を見つめる。ふつふつとした小さな気泡が、徐々に大きくなり、鍋が波のようにぐらっと沸き立った瞬間に火を止める。祖母の教えに背くか背かないかの瞬間、これをすることで、出汁茶漬けには背徳感、という隠し味が加えられるのだ。

鯛を冷蔵庫から取り出す。炊飯器には炊きたてのご飯。茶碗に盛ったあつあつごはんの上に、味が染み込んだ鯛の切り身をそっと置く。鯛にかからないように手で海苔を千切り、細く切ったしそ、ごまとともにかける。時は満ちた。心臓が高鳴る。湯気が昇りたつ出汁をおたまで慎重にすくい、ご飯茶碗の上で静かに待つ鯛に、するするとかけていく。透けるような鯛の身が、ほのかに白と桃色に染まっていく。最後に小口ねぎをぱら、お茶碗のへりにわさびをちょびとして完成だ。

澄んだ出汁を動かしてしまうのはためらわれたが、わさびをとかしてまずは出汁をすする。ほぐれた白米が入ってくるのを唇でせきとめながら飲む。鯛の漬け汁がじんわり滲んでいてとても美味しい。そして鯛をごはんと薬味とともに口いっぱいにかきこむ。口の中はしあわせの波だ。あの日海を泳いだ鯛はいまや出汁の波をかきわける。水分が抜けた身は、ねっちり、もっちりとした食感になっていた。みりんの甘みも鯛に染み込んでいて、噛むほどにごはんと出汁によく合う。ねぎのざくざく感と、ごまの香ばしい香り、さっぱりとしたわさびも効いて、爽やかな甘みが口の中に残った。

鯛 called my name. いつもなら明けないでくれと願う夜と、来ないでくれと願う朝を救ってくれた。君のような救世主と、思ってもいないタイミングで出会えるから、まだ生きていたいなと思えるんだ、毎日。

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