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【小説】ユウ、また鍵なくしたね(part2)

(part 1より続く)


 赤ワンピースが、ぎゃあ、と怪鳥じみた叫び声をあげ、とことことおれのいるベンチに向かって走ってきた。その前を、青いボールがころころと転がっている。ボールは、おれの足元のほんの数センチ先で小石にぶつかって止まった。ボールだけを見ていた女児は、その段になって、おれの存在に気づいたのか、少し離れたところで、見えない壁にぶつかったかのように足を止めた。子ども特有の無遠慮さで、おれをガン見する女児の顔は恐ろしいものを前にしたかのようにかたくこわばっていた。女児はそのまま動こうとしないので、おれはしかたなくボールを拾って、女児の方に差し出したが、女児はボールとおれを交互に見ながら突っ立ったままだ。知らない男だから警戒しているのだろう。おれは昔から普通の顔をしているつもりでも何か怒っているのかと聞かれることがよくあったので、女児には怖い顔なのかもしれないと思い、笑みを浮かべてみたが、女児は、よけいに泣きそうな顔になった。だんだん面倒になって、おれは立ち上がってボールを手渡そうと足を踏み出しかけたところで、女児は、逃げるように数歩後じさりした。少し腹がたってきたが、母親たちが話をやめておれに向ける視線にあからさまな警戒の色が含まれていたので、もう一度ベンチに座ってボールを女児の方に転がした。
 女児は、ボールをひっつかんで、絶叫しながら母らしき方のもとに全力で駆けて行った。どう見ても、暴漢に襲われ命からがら逃げているようにしか見えない。中年男が、路上で一人泣いている迷子らしき子どもを派出所に連れて行ったところ、誘拐犯の疑いをかけられたとのネットの記事を思い出し背筋が凍った。なぜか泣いているらしい女児を母がなだめながら、おれの方をちらちら見ている。おれはとっさに、電話がかかったふりをしていスマホを出して、耳にあてた。人の善意を仇でかえすとはこのことだ。今後、子どもが血だらけで倒れていても、無視して通りすぎることをかたく決意した。
 スマホに向かって、うん、とか、ああ、とか相手もいないのに会話のふりをしながらうかがうとおれへの疑惑は晴れたのか、母たちはおしゃべりを、女児はすべりだいの遊戯を再開していたが、なぜか、隣のカップルが、小動物みたいに首をそろえておれを見ていた。おれがにらみ返すと、同時にそむけた顔をくっつけて、またぼそぼそしゃべりだした。
 スマホに向かって、ああ、そうですね、とかやりながら、おれは、とてつもないむなしさに襲われていた。ママ友、女児と男児、隣のカップル。児童公園内の人間だちは、おれ以外は誰もがコミュニケーションの相手を有していた。むなしさは、強烈な孤独感となって、おれの全身を血流のように駆け巡った。母親の一人が、コウキ危ないよ、と呼んだ。コウキというのは男児の名前なのだろう。おれは、誰かから最後に名前で呼ばれたのは一体いつだったのか思い出すことすら出来ない。この孤独感は周囲に人間がたくさんいるときにおれを襲う。教室での休み時間、会社の社食。周囲でおれ以外の誰もが楽しげに話し合っている時だ。会社をやめてしばらく部屋に閉じこもっている間は、感じずにすんだ、この孤独感は久しぶりで、かつ、強烈だった。少しの間酒を飲まないでいてあおったビールがやけにまわるのと同じことだ。
 おれの意識がふと、右手のスマホに移った。ほとんど誰からもかかってくることはないし、かけることもない、ただ単にネットをみるだけの道具になっているスマホ。酔いの力が小心なおれを大胆にしていた。おれは、受話器のボタンを押して、表示されたキーボードのでたらめな数字をプッシュした。番号は使われていない、というアナウンスが流れた。もう一度でたらめを押すと、しばらくして、もしもし、と声がした。今起きたばかり、みたいな感じのろれつのおかしい、けだるい女の声だった。感じでは、若い女のようだった。おれは、息をひそめて、耳をすませた。おれと、女の間に、沈黙が流れた。今、女の意識はまちがいなく受話器を通しておれに向いているはずだ。つまり、おれと、女は、沈黙を通じて結びついている。おれは、そのことに気持ちが高ぶった。もしもし。もう一度女が言った。今度は、はっきりした、いらだちを含んだ棘の生えた声だった。おれの気持ちはさらに高ぶった。おれが黙っていることによって女はいらだちを感じている。おれが、女の感情に影響を与えている。一呼吸おいて、電話は、切れた。おれは、声を上げて笑い出しそうになりながら、もう一度、同じ番号にかけた。もしもし。明らかに怒気を含んだ声だった。背後でぼそぼそ声がした。何も言わないのよ。女の声にかぶせるようにがさっと音がして、何だよ、おまえ。
ドラマのチンピラみたいなバカっぽい男の声だった。おれは電話を切った。おかしくてたまらず、声をあげて笑った。カップルの男が、こっちを見ていた。頬のたるんだぶさいくな顔だった。
 いろんな人間が電話に出た。子どもが出て、ママはトイレに行っていますと言った。女が機械みたいな声で何とか工業でございますと言った。営業マンの、女子高生の、うさんくさげなホストみたいな男のスマホにかかった。おれが黙っていると、すぐに切るやつもいれば、何度もしつこくもしもし言い続ける奴もいたし、ふざけんなよとか怒り出す奴もいた。おれに向けられるのは敵意や怒りでしかなかったのに、なぜかおれはその遊戯に夢中になった。どれくらいの時間、それを繰り返していたのかわからない。
 急に風がつよくなって、ベンチに覆いかぶさるように植えられているケヤキの葉がばさばさ音をたてた。昼間暖かかかった空気が嘘のように冷たい風が、首筋をなで、急に酔いがさめた。いつの間にか周囲は闇に包まれ、女児も男児もママ友もカップルもいなくなっていた。 彼らはきっと、家に帰ったのだ。
 ここは都会の真ん中のはずなのに、なんでこんなに静かなのだ。
 手の中のスマホの通話記録がびっしり埋まっていて、それはどれも登録されていないでたらめなのでただの数字の羅列だがその先には生きている人がいておれは瞬間その人とつながった。つもりだが、おれはひとことも発していない。最後までスクロールしても全部数字だけで、最後の方にまだ少しだけ残っていた上司の名前が消えたのはうれしかったが、それは会社をやめたときのうれしさに似て自分が何か積極的なことをなしとげたわけでもなくただ苦痛なことが消えただけという消極的なうれしさにすぎない。バカだおれは情けなさ過ぎるくずだなおれは。このクズ。おやじに言われた時は腹がたったが間違いではないようだ。スマホを捨てたいがもったいない。握りつぶそうとするが、壊れるはずもない。スマホというものを考えた人は偉いと思う。おれには、そんなものを作る気も能力もない。その上スマホを壊すことすらできない。おれはスマホを缶ビールの空き缶やワンカップのびんや、パンの包装ビニールを入れたコンビニ袋に突っ込んだ。
(part 3につづく)



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