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【小説】ユウ、また鍵なくしたね(part3)

(part2より続く)


 児童公園には誰もいなかった。みんな家に帰ったのだ。おれも帰らなければならない。立ち上がると足元がふらついた。思ったよりも酔っていた。帰りたいのだが、おれには帰る場所などないのだ。力が抜けて、またベンチに腰を落とした。座り心地など何も考慮していない木の座面に尾てい骨がぶつかって、痛かった。痛い。涙が出るほど痛かった。やばい。本当に痛いぞ。コンロに頭をぶつけた時もマジで痛かったのだが、おれは痛くないふりをしていた。なぜなら母親が無表情だったからこれは大したことではないのだと思わなければならなかったからだ。けれども、今の尾てい骨の痛さは、何かおれに訴えかけるような警告のような、どこか切羽詰まった、ごまかしてはいけないという音色でもっておれに迫るのだった。おれには帰るところがない上に尾てい骨が痛い。これは。放っておいていい問題なわけがない。これを誰かに訴えなければならない。誰かに聞いてもらわねばならない。こうして問題をすべて自分の中で抱えこんでいる性癖が今の行き詰まった状況の元凶なのだ。
 できることといえばさっきの続きしかない。コンビニ袋からスマホを取り出す。しわくちゃのコンビニ袋に印刷された文字が、目に飛び込む。できることから始めよう。何だ、えらそうにわかったようなふりを。そもそもなんでこんなところにそんなコピーが。広げて見るとレジ袋有料化を環境問題にむりやりに結びつけているのだ。ふざけんなよ。人間、できることしかできるわけないだろう。できないことうを無理にやろうとした結果がこのざまなんだ。なんでもいい。おれはまた適当な番号にかけた。すぐに出た。「もしもし」
 たぶん、中年、というか、あまり若くない女の感じだった。どこか疲れたようでな懐かしいような、声をしていた。「もしもし」。おれは、受話器に向かって返していた。何人にかけたかわからないが、一方通行のコミュニケションを初めて脱した。声を出したのはずいぶん久しぶりな気がした。「ユウ?」眠そうだった女の声がはっきりとした輪郭をおびた。おれは、どきっとした。「ユウだね?」。
「ああ」
 おれは、そう返事をした。おれおれ詐欺のまねごとではない。「ユウ」というのはまさにおれの名前だからだ。
「どうしたの?」
 かすれたような声は、中年よりももっと上かもしれない。初老か老人か。とても懐かしい気持ちがこみあげた。遠い昔に聞いたことのある声だ。母親の声とは全然違うし、もっと年上だ。祖母は、父母方ともおれが物心つくころにはもう亡くなっていて、顔さえ知らない。だとすれば誰なんだろう。おれは必死に記憶をたどった。ケヤキの枝にたこ糸のような白い長いものがからみついていて、風にあおられて微生物のようにくねっていた。不気味なその動きに連動するかのようにおれの心に安堵感がこみあげた。とても困っていたときに、この声の持ち主に助けてもらった気がする。
「帰れない」
「え?」
「家に帰れない。帰る家がない」
 そのことばを合図にするかのように、両目から、涙がにじんだ。女が、一瞬、黙った。見えるはずもないのに、おれは、あいた手の指で涙をぬぐった。声の向こうでかすかに声がした。テレビのバラエティのようだった。それに笑い声が重なった。とても上品な笑い声だった。
「なに冗談言ってるのよ。いやね」
 まだ笑いが残った、はずんだ声で女は言った。
「ユウ、あんた、また鍵なくしたんでしょう。今度はどこに忘れてきたの」
 鍵はある。鍵はあるんだけど、それで開くことのできるドアがどこにも存在しないのだ。
「まあいいわ、鍵、開けとくから。何時に帰るの? もう近くにいるの?」
 早く帰ってきなさいよ。そのことばを最後に電話は切れた。風がやんで、命を失ったたこ糸は、地面を向いてまっすぐたれていた。
 おれは、児童公園を出て、薄暗い路地を歩き始めた。おれのために鍵が開けられたドア。どこにあるのか、近くなのか、はるか遠くなのか。それすらわからないが、確実に存在するのだ。世界でただひとつ、おれが帰ることできる場所をめざして、おれは歩き始めた。
 ユウ、また鍵なくしたね。
 酔いで濁った頭に、とつぜん、ぽんとわいたようにそんなことばが浮かんだ。
 細い路地は、どこかで国道につながっているはずだが、いつまでも光は見えず、暗いままだった。だんだん早足になり、さっきまで肌寒かったのに、シャツの背中に汗がにじんでくる。目の周りが乾いていく感触にさっき泣いたことを思い出す。暗い中に細い糸が見えた。おれは、のけぞりそうになった。いつの間か、また児童公園に戻っていた。
 ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。
 ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。
 ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。ユウ、また鍵なくしたね。
 池の底からあぶくが後から後からわいてくるように、そのことばが脳内をこだまして重なりあった。
 ユウまた鍵なくしたね。
 声に出してみた。昔大学の学園祭で見た、男女が自転車に二人乗りして観覧車に乗りに行くだけの退屈な自主制作映画を思い出す。その手の映画のタイトルみたいだ。きどっているだけでがらんだろうだ。
 ユウ、また鍵なくしたね。
 はは。
 思わず声を出して笑った。さっきと違う道を行ったはずなのに、また、白いたこ糸が見えてきた。背中が汗でぐっしょりと冷たい。路地はどこまで行っても真っ黒だった。
 ユウ、また鍵なくしたね。
 はは
 ははは

(了)


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