見出し画像

【掌編小説】すばらしい人間

 別に何の思い入れもなかった。けれども、行ってみたくなった。最後に訪れたのはいつのことだったか、覚えてもいないその街に。改札を出たところの風景は記憶と同じようにも思えたし、そうでもないような気がした。少し歩いたところに見覚えのある書店がまだ残っていた。昨今ではついぞ見かけなくなった個人経営の小さな店だ。学生時代はよくここで立ち読みをした。買おうにも買いたい本は必ずといっていいほど置いていなかった。外からのぞくと、奥のレジの店主と目が合った。当時はまだ中年といえる年だったが、すっかり年老いてしまっている。もちろん、ガラスに映る自分の顔だって当時のようなみずみずしさはかけらもない。時の経過にさかえらえるものなどこの世界には存在しない。
 書店を通り過ぎたところにあるカフェに立ち寄る。学生時代はそのどことなく隠れ家的な雰囲気に押されて一度も入ったことがない。けれども、今は何の臆することもなく扉を開くことができた。あの時の何をするにも人の顔色をうかがっていた自分はもういない。そもそも誰もぼくなど見てはいないということを今ははっきりわかっているからだ。
 本を読みながらコーヒーを飲む。客はぼく以外誰もいない。マスターはずっとカウンターの向こうで新聞を読んでいてぼくにコーヒーを出した後また元の位置に戻ってまったく同じ格好をして新聞を読み続けた。
ふと顔をあげるとガラスの向こうの二階の窓にこちらをのぞく顔が見えた。髪の長い女性だ。普通の民家だからたぶんそこの住人だろう。彼女はぼくを見ていた。はじめは気のせいかとおもったのだが、彼女はぼくを見て微笑んですらいたのだ。
 カフェを出て、ぼくはその家のインタホンを押した。すぐにドアが開いて、さっきの女性が出て来た。ぼくはキッチンに通されて、テーブルに座るとコーヒーが出て来た。今飲んだばかりなのに、そのコーヒーはさっきのコーヒーとは全然違っておいしかった。
「お互いに、ほめあいましょうよ」
  女性は自分もコーヒーを飲みながら言った。
「もう、こんな年になると誰もほめてくれる人なんていないでしょう」
 女性は、ぼくが仕事をきちんとしていること、一人暮らしなのに家事をきちんとやっていることをほめてくれた。ぼくは彼女が夫と死別した後、一人でつつましく暮らしていることをほめた。そして、お互いに読んでいる本についてほめあった。
「あたしたち実にすばらしい人間じゃないですか?。誰もそう思ってないですけど」
 彼女は微笑みながら、ぼくのカップにコーヒーをつぎたした。(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?