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【小説】○と△と×と(#2 完結)

(#1)よりつづく

 その日、あたしは、クリップの時と比較にならないほどすがすがしい気分で帰途についた。 翌日、同じようにバスに揺られて草原に到着した。配られたゼッケンは昨日とは違い、「〇」だった。あたしは新鮮な気持ちで一日数え切れないほどの○を描きまくった。
 翌日の最終日、ゼッケンは「×」だった。三日とも違う記号ということになる。これは偶然はなく意図的なのだろうか。美大女子を探して聞いてみた。
「全員、三日間の作業で、○△×がかぶらないようにゼッケンを配っているんですよ」
「それって、何か意味があるんですか」
 美大女子は少し考え、
「そうですね。本当のところはアーティストにしかわからないことですが、あたしが思うに、ランダムに配ると、今日たとえば自分が○なのはたまたまで、○である必然性はないわけです。ところが、三日間だぶらないで配っているとなると、今日は自分は△でも×でもなく○でなければならないわけで、個々のメンバーの意味が際立つというかたんなる部品ではなく確固たる存在感を持ってアートの制作に加わっている、そのような自立性が芽生える、そのあたりを狙っているような気がしますね。あくまで推測ですが」
 あたしは、感動した。一日目にあたしが△、二日目に○、そして今日×であるのはちゃんとした意味があった。今日はあたしは断固として×でなくてはならない。毎日毎日あたしであろうが誰が分けてもクリップはクリップにしか過ぎなかったクリップの時とわけが違う。テンションがあがって、午後の十分間の休憩も返上して×を描きまくった。
 作業が終わり、三日分の報酬を受け取り、バスを待つ間、草原を一望してあたしは息を飲んだ。転がる岩のすべてが○△×で埋め尽くされている光景はまさに圧巻だった。なんだかわけがわからないのだが、心に迫ってくるのだ。これがアートというものなのか。あたしは係の人の許可を得て、草原の光景をスマホで写真を撮った。色々な角度から何枚も撮った。帰りの電車の中で、あたしは飽きることなく何度も写真を見返した。ちりばめられた○△×の一部をあたしが描いたのだ。そう考えるだけで、わくわくした。アート作品として、あたしの痕跡がいつまでも残り続けるのだ。これまでに経験したことのない胸のときめきを感じた。
 数日後、新しいレギュラーの仕事が決まった。工場の検品の仕事だ。ベルトに乗って流れてくる、何に使うのかわからない金属の棒の先にきちんとネジが取り付けられているか確認するのだ。苦でもないが楽しいはずもない。作業に飽きていやになってくると、あたしは、遠い草原にいまだに存在しているはずの○△×の岩のことを思った。そうして終業時間まで何とか乗り切っていた。
 数日後の昼休み、スマホに着信があった。岩のアートの時の派遣会社だった。出てみると、同じ場所で同じ時給でまた求人があるので来ないかという誘いだった。前回と違って一日だけとのことだったが、ちょうど工場が休みの日だった。あたしは迷わず行きますと返事した。きっと、あのアート作品に何らかの手を加えるのだ。何だろう。今度は色でもつけるのだろうか。棒の検品に飽き飽きしていたあたしはその日が来るのが待ち遠しくてしかたがなかった。
 当日のメンバーは前と同じ十人くらいだった。何人か見覚えのある顔があった。美大女子もいた。
 スプレー缶と一緒に配られたのは、ゼッケンではなく、白い布だった。係の人の説明を聞いて、あたしは愕然とした。スプレーは塗料ではなく、塗料を落とす薬品で、あたしたちの仕事は、岩にスプレーをかけて、布でこすり、○×△をあとかたもなくきれいに消すことだった。
「なんで、消しちゃうんですか」 
 あたしは美大女子を見つけてつめよった。
「この草原も、個人か国なのかわかりませんが、誰かの所有地なわけですからね」
 美大女子は、その日は、三つ編みにしていなかった。少し茶色がかった髪の毛の先が鳥の尾のようにはねていた
「ある期間だけ、借りて作品に使わせてもらっているだけなんです。期限がすぎれば、現状復帰っていうんですか、元通りにしないといけないわけです」
「でも、芸術作品なんですよね。芸術作品って、たとえば美術館とかに半永久的に保管されているものじゃないんですか。ピカソとかゴッホとか、そうですよね」
「もちろんそうした作品がほとんどですが、こういう自然の環境を利用したアートはずっと残されるということはむしろ例外ですね。このままにしておくと、うるさい人たちがいるんですよ。自然破壊だとかいってね」
 あたしは鬱々とした気分で、作業を始めた。岩にスプレーをかけるとい○△×の塗料が溶け、布でこすると簡単に消えた。そのうちのいくつかは、あたしが描いたもののはずだった。作業が終盤になって、あたしは、まちがいなくあたしが描いた△に行き当たった。初日に、美大女子と隠れてさぼった巨大な岩の隣の、根元から細い雑草が生えていた岩なので、はっきりと覚えている。あたしは、その△だけを消さずにやり過ごし、次の岩にとりかかった。
 作業が終わった後の、ただ黒い岩だけが並ぶ草原は、ため息がてるほどみすぼらしい光景だった。
 バスを待っているあいだ、あたしは、一人抜け出して、巨大岩の方に走った。あたしが描いた、たったひとつだけ残っているはずの△を写真に残しておこうと思った。
 巨大岩にたどり着いたあたしは、ただ呆然と息をきらせていた。
 あたしが描いた△は、いつのまにか、あとかたもなく消し去られていた。

 (了)


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