わざわざ本を読むなんて

本というものは映像や音楽と違い、それを味わうためには体力を消費する。
「本を読む」という作業には文章を追い、そして理解する、という能動的な態度が求められるからだ。
それでも私は本を読む。
音楽や映像と同様に本を愛する。

本には音楽や映像ほどのわかりやすく鮮烈な体験は期待できない。
しかしそれらにはない魅力が確かに本というものにはあると信じている。
では私にとっての本の魅力とはなんなのか、ということで一応の整理をしてみた。
私が主に読むのは文芸書と専門書だが、おそらく他のジャンルにも通じる部分があると思う。

言葉に対するフェティッシュ

本を読む人は、読まない人に比べて多かれ少なかれ言葉というモノに対して特別な感情があるのだと思う。
言葉に対するフェティッシュと言ってもいいかもしれない。
これは感覚的なものなので言語化が難しいが、美しい夕焼けを見て心を豊かにするのと同じように、美しい言葉、文章を味わうことによって同じような効果を得られる、という感覚だろうか。

立ち止まって考えること

いつでも本を広げられるとかそういうことではなく(そういう側面は確かに存在するけれど)、文章を読む合間に立ち止まって考えることができると言うことだ。
本を読んでいると、表現、思想に対して良くも悪くも引っかかることがある。
そしてその度に立ち止まることができるのが本という媒体だ。
それはその物語のパズルを埋めるためであったり、そこから飛躍して自分の身の回りにあるピースを形作るための時間だったりする。
本を読んでいて何かを得る瞬間というのは得てしてそういう時間なのではないかと思う。

新しい言葉、新しい自分

本を読むには能動的な態度が要求されるというのは先に述べたが、だからこそ私は本に書かれている言葉を自分の一部に取り込むことができるのだと思う。
受動的ではなく能動的に、そこにある言葉を飲み込む。
そして時々喉に引っ掛かったり、胃の中がぶわっと熱くなる感覚が湧いてくる。
自分が想像もしなかった考えや、それまで茫漠としていて像を得なかった思考をぴたりと言い当てる言葉に出会う。
そういった考えや言葉は、元々用意していたかのように自分の中の特定の場所に綺麗に収まる。
継ぎはぎのように付け足されるのではなく、泉に雫が落ち、それがまた新しい泉となるように。

曖昧さが生み出す極めて個人的な世界

本、というより文章における言葉というものにはある種の曖昧さがある。
言葉の表現しようとするところを想像力で補う必要があり、逆に言えばその余地が十分に受け手に残されている、という意味の曖昧さだ。
それは言葉の欠点でもあり美点でもある。
美しさ、こうあって欲しいと思う世界のディテールは個人によって異なる。すでに世界が完成され固定されている映像とは違い、言葉にはその世界のディテールについて、個人が想像しうる最も理想的な、極めて個人的な世界を構築することができる能力がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?