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星のように疲れていたり

タワーレコード前で落ち合う友人が星のように疲れていたり

『輪をつくる』/竹中優子
(角川書店)

タワーレコードの前で待つ友人を見て「星のように」疲れている、と思う。人間には想像も及ばない時間を持つ星を喩えに使って、友人の疲労感を表している。それにしても、星。うつくしく巨大なもの。微妙な日常を切り取っていく『輪をつくる』のなかでも象徴的な一首だ。

竹中が詠み込んだ物事のなかで、最大の魅力を放つのは「疲れ」の描写である。

ひかりふる失恋をした後輩が筋トレの話ばかりしている

口座から十七万円引き落とされた午後に両手を水のように垂らして

「侮辱だよ」ファミレスのステーキ食べながら軽く笑って妹は生きる

疲れは生活と切っても切り離せない。失恋、支出、家族との関係。どのように歩こうと付いて回る。この歌集の中には様々に表出した疲労感が収められていて、観察と鋭い語の斡旋によって手渡される。

例えば、後輩に滲んでいる失恋後の哀愁は、「ひかりふる」という言葉の輝きによって包まれた。問題をすり替えるように筋トレの話をする後輩の姿。二首目、支出を終えた午後の倦怠感。腕が無機物のようにだるくなる感覚が、言いさしの力をかりてとろけるように変質させられている。体を動かすのもつらい感覚が読者のなかに蘇る。三首目、妹の様子。ファミレスのステーキも、笑っている様子も、その風景にはおよそ似合わない侮辱という言葉によって空転している。

母親が壊れるほど泣き高校の修学旅行だけには行った

西瓜という浅瀬をひとつ切り分けて母のさみしき食卓に置く

係の人に喪服を着つけられている母は折り紙のように見えた

母との関係は大きなテーマのひとつ。淡々とした詠みぶりに、疲れ、親と娘の関係に付いて回る絶望感が読み取れる。大人になった今、母を見つめる眼には複雑な感情が宿る。

これまでに引いた作品は、私が歌集のなかでも偏愛する作品だ。他者、自己、それらと社会の関わりへの観察が表出する。マイナスへ向く感情・出来事を響かせる性質は、短歌の器が持つ一つの特徴だろう。その性質をうまく使いこなしていて、その中でも、鮮やかに立ち上がった「疲れ」の描写には作者の腕が光っている。

ところで、竹中が描きたいのはネガティブな物事に対する眼差しだけなのか。通して読めば、この歌集が父母や職場の関係が絡み合う生活から切実に生まれ出たのだと推察できる。けれども、目を奪われ、生活の一部を共有するとき、纏わりつく疲れや絶望をシニカルに見下ろすものではないと思う。他の何かを志向した一冊だと思えてならない。

船を降りたところに並ぶ部活の子「他人事だからまぶしい」と話す

私たちは、社会と、社会をつくる人間と否応なしに関わって生きる。理不尽な扱いを受けた経験/理不尽なことをしてしまった経験、疲れは容易に体のなかに刻まれてうごめく。

ひるがえって、周りを見渡してみればどうだろう。私たちは自分自身以外の誰の内側も覗けはしない。あかるく振る舞う隣人が地獄を抱えていようとも、本当の意味では理解できないのだ。他人のことは関係がない。文字通りの、他人事。しかし、それでも。竹中優子は「まぶしい」という形容をとらえて、書いた。

アンコールでみんな出てくるこれまでに出会ったコンビニ店員たちが

ここまでが適切な距離と告げるように花束抱えて微笑むひとよ

五月、生活は訪ねてきてくれた 美しい白菜をひとつ抱えて

他者と自己が重ならないと理解した上でなお、他人の一挙手一投足を見て、星や水を呼び出していく。

他人の中に、あるいは社会と自分が近接している一点の中に求めることをやめない。社会、家族、個人それぞれの活動が生まれては消えていくなかに、美しさがある。目を凝らして掬い取り、提示しているのは感情や所作の中に生まれる美。いやそれどころか、会議やコンビニの営みにすら。

美を見出し、認識できるうつくしい形式に変換していくこと。ともすれば、踏み込みすぎているのかもしれない。その追求は、ときに残酷な言葉にすらなってしまうだろう。言葉を通して社会と関わるという行為は、どのような形であるべきなのか。『輪をつくる』はひとつの答えのようにも思える。私も一人の歌人として、自分自身に問い続けたい。

暮らしの中で、うつくしさを諦めないのには多大な労力が伴う。けれども、あると信じている。見出そうとする粘り。信じるために、顔を上げている作者がみえる。

手放さず、彫るように観る。五月に包まれた白菜はぴかぴかと艶めき、例えば、竹中の志向はまっすぐに次の一首のような形を選びとった。

どの文字も微量の水を含むこと思えば湧き出てやまぬ蛍よ



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