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風見鶏

就職をし、引っ越しをし、労働をしながらかつて住んでいた場所に思いを馳せる。『weathercocks』の後書きには「Ⅰ部は京都での学生時代から就職で岐阜・小牧に住んでいた頃、Ⅱ部は三重で建設機械の整備をしながら働いていた頃、Ⅲ部は首都圏に引っ越してからの頃をそれぞれ描いている」とある。『weathercocks』は、廣野翔一のこれまでの生活が詰まっている歌集だ。

177ページから始まる、歌集終盤の連作「花を吐く」が歌集中で最も良いと感じた。なぜなのか。この文章は、私がなぜ「花を吐く」が良いと感じたのかを辿った結果生まれた。

積雪に光の全て翻りおまえはおまえの冬を拒めり
ゆうやけが燃えていたから何かしら放り込むはずだったのに、なぜ

『weathercocks』廣野翔一(短歌研究社)

どちらも荘厳な光を取り上げている歌だが、一首目のほうが硬い。文語ベースの進行に口語が混ざる。文語・口語では語や文体によって規定される距離が違っている。文語、あるいは口語のみで歌集が書かれれば、作品群と読者の間の距離はある程度統一されるのだ。両方が使われる本歌集では、まず、文語の歌と口語の歌があることで、それぞれに距離の違いが生まれている。両方が使われた歌によってその中間も。

文語と口語のミックス自体は全く珍しくないですが、さらに作品と読者のあいだを変化させるものとして方言が取り入れられているんですよね。廣野が大学時代まで身近に触れていたであろう関西弁が。

薬局が多すぎるんや来るたびに思えりたとえこんな時期でも
うえちゅんてなんやねんとか悪態をついて上中うえちゅんの方へ歩けり
喫煙の親族ばかり揃いよる蛙の口の灰皿渡す

例えば一首目、これ、東京のことで、東京にはどの駅前にも二、三の薬局があります。ぼくの地元の長崎や、大学時代を過ごした岡山の街を思い返してみても、東京には不自然なほど薬局があります。駅の前にも駅地下にも薬局がある。その違和感に対してツッコむ時は「関西弁」。歌集における短歌は文字でしか書かれてないので当たり前なんですが、実際の発話と違って語の選択に時間はかけられるはず。けど、違和感が侵入してきたときに反応する選択肢として選ばれるのは方言なんです。関西の言葉で育った廣野にとっての必然的な選択なのでしょう。作品と読者の間の距離において効果を持つのが、この関西弁。

廣野さんが大学生だった頃から都内での時間を描いてるのが『weathercocks』。後書きに示された情報、歌の内容からしても廣野さん自身を主体として読める歌集です。廣野さんが感じたことを短歌作品を経由して、読み手側が味わっていける歌集。

で、その前提があるなかで、関西弁という書き言葉的イレギュラーが起こるんすよね。読み進めてきたところに急に柔らかい発話が起こってしまう。書き言葉だなあと思ってたのに急に喋り出す、みたいな。そう方言ってマジで発話なんですよねー。たとえば地の文で方言が使われる印象ってほんとになくないですか? 方言を文字で読んだら、頭の中が会話のモードにジャックされてしまう。いままで書き言葉の「短歌」として読んでたのに、急にリアルな声で聞こえてくる。で次の歌ではふつうに全部文語に戻ってたりする。まあでも本読んでる時は書き言葉のスタイルで思考が流れるし、急にそこで喋りかけられたら喋り言葉になるやないですか。数えたんですけど『weathercocks』って方言が使われてる歌って十首しかないんですよ。このすくなさもすごく効いてる。全部唐突に出てくる。例えば、その唐突さと扱う言葉による「距離の変化」って生活の中だと確かに当たり前すよね。

草刈機かざして歩む老人の道に真白き花群あらず
カーテンが風に揺れない一室に晩秋の星野源は踊れり
冬の夜に遭えば驚く大男として真冬の夜をとぼとぼ歩く

さっきまでに言った文体のレベルの距離感変化みたいな感じで、語彙によっても狂わされる。花群はなむれみたいな文学の言葉から星野源みたいな固有名詞、「とぼとぼ」のような可愛いオノマトペまで様々な語の引き出し。語彙レベルで変化を重ねることによっても細かい伸び縮みをする。連作それぞれにおいても質感の違いがあります。歌集冒頭の「雪の終盤」は〈寒気団 いずれ私が立つはずの荒野を澄ますために寄り来る〉から始まり、連作は一貫して硬質な一方で、Ⅱ章の冒頭の連作「作業員・廣野翔一」では〈工場は球場、言わば出勤は右翼ライトへ捕手が歩く如くに〉というユーモアのある一首目が選ばれていて、連作全体もやわらかい。

勤務地を絞り求人探しおりまばらにはある君の街にも
「残酷なことをしていた」そうなのか残酷だったのか今までは
花を吐く様に君には拒まれて散らばる花をただ思うのみ 

ひとつひとつの要素を見てみれば、新しくはないかもしれない。けれど、歌を並べて「連作」にすること、「歌集」にすること。そのひとつの成功例として名前を挙げられる歌集ではないでしょうか。選ばれた語の幅広さ、距離の伸縮、それによる没入感。これらが効果的に働いたから「花を吐く」が魅力的に見えてくるのでしょう。

上記は「花を吐く」より三首。わたしが一番好きだった連作です。傷心の連作。読者は距離の伸縮を通して、作者の生活や、滲み出るキャラクターを体感していく。その末にたどり着くからこそ〈「残酷なことをしていた」そうなのか残酷だったのか今までは〉〈花を吐く様に君には拒まれて散らばる花をただ思うのみ〉のような感傷を、連作を通して共有できるのだ。

では、廣野は距離の伸縮を殊に意図しながら歌集を編んだのか。そうではない、と思う。入り乱れる口語や文語、方言、豊かな単語の幅は、作者が世界と触れている時のそのままの言葉なのではないだろうか。

人は同一の文体をもって、世界と接するわけではない。前述のように、文章を読むときには書き言葉が頭を流れるだろうし、人と話す時は喋り言葉が支配的になるだろう。東京にいるときと地方の実家にいるときとでは、扱う言葉は違ってくる。外界と関わるなかで扱う語や文体が変わるのは当然で、スイッチングは一日に何度でも瞬間的に起こる。住む場所を中心に章立てされた、長い時間を含んだ歌集において、文体と語を通して距離が変化するのはごく自然なことなのだ。その作者の素直な体感の出力によって、踏み込んで読まされる歌集だと思う。

『weathercocks』を日本語にすれば「風見鶏」。複数形。くるくると吹かれながら、詠っていく。変わっていく自身の生活の中で軽やかに、ときに静かに。この本のタイトルとして、これ以上のものはないだろう。


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