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100歳までは生きられないと思うから

いつの間にかハロウィンが終わって、気がついたら文化の日の祝日も終わっていた。そして、このタイミングで本日25歳を迎えた。こうしてSNSやnoteに書くと、これを読んだ人に「おめでとう」と言わせてしまう「おめでとうの搾取」をしているようで、その烏滸がましさを後ろめたく感じることがある。違うんです、ええほんとに(笑)祝って欲しいと思うほどの幼さは流石にもうないけれど、25歳を節目に考えていることは誰かに読んで欲しいと思う、というのが正直なところ。こんなんだから、妹が(妹の)彼氏に「お姉ちゃんはどんな人なの?」と聞かれた時に「うーん、卑屈」とさらっと言われてしまうわけだ。そんなことを思い返していたら、あながち間違っていないような気もして、今更腹が立ってきた。

昨日は一人で楽しみにしていた「窓辺にて」を観るために新宿テアトルへ。もういつぶりかわからないくらい、超久しぶりの定時退社が自分から自分への少し早めの誕生日プレゼントになった。ビロードの座席は満席で、トークショーを終えた今泉監督の背後にはサインを求めて夢の国のスターの如く長蛇の列ができていた。今泉作品のエモさが嫌いだ、という人が一定数いるけれど、わたしは監督の作品が素直に好きだし「エモ映画」だとは(いわゆるそれにどんな作品が当たると考えているのかは作品を下げる気がするので、敢えてここでは言わないことにする)思っていない。いわゆる「エモ映画」はある程度のターゲット層を絞っている嫌らしさがあったりするものだが--それこそ世にうじゃうじゃといる私のようなサブカル20代女にウケそうな--体だけの関係とか、カルチャータウンとか、そういう「要素」は取り入れているけれど大衆的でもっと斜に構えていない、それが今泉監督の作品の良さだと思っている。

もっと日常的でいて、どちらかというとカフェでの誰かの会話を盗み聞きしているような親近感に満ちている、そんな良さがある。まあ、この話はいずれどこかで記事にできればと思う。

「いいこの日(11月5日)に生まれたあまり性格の良くない子」という呪縛を背負って本日まで生きてきたわけだが、去年1年間はそんな自分のことをさらに嫌いになる出来事もたくさんあった。ただ、ネガティブを続けてもどうしようもないのでちょっと良かったと思えたことを振り返らせて欲しい。25歳は目指せポジティブ娘である(さすがに少し厳しいかもしれない)。

そんな私の24歳のハイライトは「怒る」ことができたこと、だ。今年一年はずいぶん悩んだし、ずいぶん泣いたのだけど、それ以上に怒りについて考える機会が印象的だった。記憶する限りで1年の間で2回、かなり冷静にではあるが怒ったし、相手にも伝わったからこそ話し合いになった。人によってはそんなことがハイライト?と思える話かもしれない。だが、私にとっては大進歩なのだ。

「怒らない人」は、どのコミュニティにもたいてい一人はいる。怒りの感情のコントロールは場面によってはしばしば美点としても語られるだろう。しかし、自分がこの「怒らない人」だったからこそ分かることなのだが、この手の人はそもそも他人に怒るほど興味がない。その人が何を言おうと、それに対して自分がイラッとしようと怒るほどの労力を相手に割きたくないというのが本音だ。あとは怒りのハードルが極端に低い本当に温厚な人、悪く言えば鈍い人。私は圧倒的前者で、多少イラつくことがあっても完全に自分のエネルギーの温存のために起こることを避けてきた。

そもそものことを考えると、人生において怒らなくて良いような相手とばかり関係を構築してきたわけで、だからこそ、その箱庭のようなぬくぬくとした狭い箱庭の関係の中でも「怒り」を感じるきっかけには、やはり生活のそれぞれの変化が根底にあった。20代中盤〜後半にかけての、この波のような環境の変化の渦は、時に人を狂わせることもあるのかもしれない。クォータークライシスに陥りすぎると、時に人は己の人生においてとち狂った判断を下す。私も気をつけようと思う。

もちろんいつも怒っていたり、意味のない怒りは極力控えるべきであるが、本当にその人のことを思うなら「怒らなければいけない場面で怒らない」ことは責任の放棄になる。だから24歳は、然るべき場面で怒りを表現した、つもりだ。でも、怒りながら内心震えていたのは自分の方だった。「怒る」ことには勇気がいる。怒ることで、嫌われてしまったらどうしようと、ちいさな恐怖がじわじわと頭を侵食する。

その恐怖を知ったからこそ、怒ることのできる人を少し尊敬するようになった。だから25歳も、「正しく怒る」努力は継続したいと思う。ちゃんと怒って、私が何を嫌だと思うのかを知ってもらって、相手のこともちゃんと知る。守備範囲の狭さはもうそのままでいいから、自分と自分の周囲に対して責任を持つこと。エゴにならない怒りの使い方を身につけていきたい。

25歳の目標は、まずは生きていくこと。ドがつくシンプルさだけど、私は年内で会社員生活を一旦辞めてフリーランスになる。仕事がなければ食べてはいけない。3ヶ月目には仕事がゼロなんてことも全然あり得る。ここはまあ、がむしゃらに頑張っていくしかない。

あとは対人関係において「傷つきたくない」を先行させないこと。時々「人間関係を構築するのは苦手なんだけど、人は好き」という人に出会うのだが、同じコミュ障に属するしても私は全くその気持ちが理解できず、根底で人が苦手だしそれは大人になっても全く変わらない。強がりではなく一人の時間が苦ではないし、むしろ楽しめるまである。しかし、そんな私にも時折「もっとその人を知ってみたい」と思わせる出会いがあるわけで(これは恋愛的な意味だけではなく)その貴重な機会すら「迷惑だと思われたら」「気持ち悪いと思われたら」の天秤にかけ、傷つくことを避けて捨ててきた節がある。だから25歳はちょっとだけ自分を変えたい、というか変わりたい。not責任の放棄、の意志で自分から誘う。もし、これをお読みの方にも何かの形でお声をかけさせていただくことがあったら、「あ、コイツいま頑張ってんだな〜」と温かく見てほしい所存です……と、予防線張ってすみません。でもこれは有言実行できたらいいな。

100歳まで生きられたら25歳は4分の1ゴールかあ、なんて思ったけどなんとなく私は多分100歳までは生きられないと思うからもう4分の1は切ってしまったことになる。ふと、昔憧れていた国語の先生に卒業式で「すてきなレディになってね」と寄せ書きをもらった記憶が蘇った。人生新章、多分ここからの5年が超激動の予感。そうであってほしいとも思う。私は素敵なレディになれているのだろうか。大人になんてなれていなくて、お酒が飲めるようになって5年が経っただけの大きな子どもなんじゃないか。

そう。きっとまだ、だからこれから。



2022.11.5
すなくじら


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