見出し画像

リヒター展で何が変わったのか


ゲルハルト・リヒター展。
はじめてアートが存在する意味を考えた。
もちろん自分なりの解釈だけど。

抽象画のなかに自分のカケラ(自分とリンクするもの)を見つけた。
これは、あたしのなかのドロドロしたものと似てるなとか、あたしの血と肉みたいだな、とか。

そうなると、作家が何を表現したかったのか、何を問いかけてるのか、みたいなものを考えるようになって。
そんなこと、完全に理解できるわけないんだけど、それを考えること=自分と向き合うこと、のような気がして。

それを見て自分のなかに何が起こったのか、なぜそう思ったのかを考えていた。

リヒターの唯一の動画作品を見た時。
15分ほどの映像はすべてぼやけていて、何を写しているのか、これを作品にした意図はなんなのか全然わからなかった。
でも、ぼーっと見ていたら
わからないことをわかろうとする、その行為こそに意味があるのかな、と思い始めた。

わかろうとすること、には愛がある。
わからない、と放置することも切り離すこともできるけど、わかろうとする理解したいと思うことは愛がなくちゃできない。

それは日常にも落とし込める。
なんでこんなこと言うんだろ、意味がわからん、て思う相手をそこで切り捨てるか、わかろうとする努力をするのか。

作品をみて何を思うかは自由だ。
作者の問いかけに正しく答えられる人なんていないと思う。そもそも問いかけ自体、あるのかどうかもわからない。

でも目の前にある色や物質に、何かを投影したり感じようとすること、それ自体に意味があると思った。
同じものをみても、同じように感じるわけじゃない。
それは、それぞれ生きてきた環境が違うから当たり前の話で。
作品を見て自分の中のなにかが震えて、澱んだり透き通ったり、動揺したり。
そして、それはなんでなんだろうって考える。

作家が表現したかったものを汲み取る、みたいなことはできないけど、なんで自分はそう思ったのかってところから自分の思考とか過去起こったことと対峙するっていうのが、自分なりのアートの楽しみ方なのかな、って思った。

アートって、わかる人にしかわからない世界で、自分にはわからないなっていう苦手意識があったけど、今回の展示をみて自分があえて壁をつくっていたことにも気づいた。
自分なりの楽しみ方を見つけられた気がして、それが嬉しかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?