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合うはずないを繰り返して


趣味が合う。感性が合う。波長が合う。とにかくどうでも良いと思っている。人はもっともっと単純でバカらしいところで人に興味を持ってしまうと思う。

まず、気が合うかどうかの事実よりもそれにかかる期待値がものすごくしんどい。合うと思っていたのに合わないなと思われることも、その逆も。結局「合う」の始まりは「合わない」探しの始まりやん、という思いが強い。それに、自分と合うかどうかで相手を決めることに違和感を感じる。それに比べて、「合わない」から始める関係は素直でよい。合うのプライドや忖度を持たず、無理をしなくていいから。

「合う」がよく分からない。友人に対しても「気が合う」と感じていないことも多い。全然違うなと思っていることもある。特に、好きになる人、恋人に対しては気が合うと思ったことすらない。趣味や思考はもとより、育ってきた環境など含め「合う」と思ったことがない。なので合うから好きになる理論が分からない。未経験なので比較しようがないが、人は大体において「合わないから好き」になるのではないのかと割と本気で思っている。

「友人」か「知り合い」かの境界線を明確に持っている人に出会う。自分にとってその線引きはすごく曖昧なので基本的に「友人」にカテゴライズされる。それと同じような感覚で、自分には「合う」と「合わない」の線引きが存在する。そしてだいたいを「合わない」に分類する。そしてさらに「合わない」にカテゴライズされる人を嫌いなのかと言われるとそうではない。むしろ合わない方が良いんです、としか答えられない。合う人とはなんなのか。合わなくていい。

「合わない」が「会いたい」になるときがある。

なんか人間らしいやん。わからないことを知りたかったりする。このひとはこちらをどう見てるんだろうかと考える。

遠い対岸にいて近付くのは到底無理な気がするのに、それでも対岸を歩く姿を見てしまう。好きは「合わない」から「会いたい」になって、でもやっぱり「合わない」になる、でも好きで、合うはずないのにをなぜだろうを繰り返して、そしてそんな時こそが自由だったりするんじゃないかと思う。

それは気が合っているんだよ論、今は無し。


映画を見ないわたし
本を読まないあなた
それでも伝えるのは
やっぱり合わないねの
確認がしたいから

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