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音の中を泳ぐ車
朝7時30分。私はかなりイライラしていた。
【髪の毛が襟に付く場合は、お団子にしてシニヨンネットでまとめること】
入社前説明会で渡された身だしなみチェック表には、確かにそう書かれている。
それなのに。
何度やり直しても、何度鏡を見ても、長くて多い私の髪は上手く纏まってくれなかった。
「出来ないなら、どうして前から練習しておかなかったの!」
後ろから飛んでくる母の声。
そんなこと言われずとも、自分が1番後悔しております、と心の中で呟きながら、私は大きくため息をつく。
はぁ。
嫌な気持ちを外に出し切ると、私はお団子に再挑戦すべく、再び髪を束ね始めた。
7時40分。出発まであと5分。
私の髪はお団子になってくれない。
ーー入社式に遅刻してくる新入社員より、
「不器用でお団子に出来なかったんですう」
と申し訳無さそうにポニーテールを揺らす新入社員の方が、まだ微笑ましいか。
決断した私は大きくため息をついて、束ねた髪を1つに結った。
私の長い髪は、高い位置でポニーテールにしても肩甲骨の下あたりまで垂れてしまう。
言うまでもなく、襟にかかることになる。
髪をすっきりとまとめた他の新入社員に混じって、私1人だけ、だらしなく長いポニーテールを揺らすことになるのだ。
ああ、きっと目立つだろうなあ。悪い意味で。
社会人になって1日目の朝から、私は泣きそうな思いでカバンを掴む。
「気をつけて行きなさいよ!焦らないで運転しなさいね!」
またも後ろから飛んできた母の声は、耳に入らない。
私が勤めることになる会社までは、車で片道50分かかる。
急がないと、本当に遅刻する。
はぁ。
ため息をつきながら運転席に乗り込むと、私は勢いよくドアを閉めた。
ーーー運転開始20分、またも私はイライラしていた。
はぁ。
なぜ、こんな日に限ってすべての赤信号に引っかかったり、道を間違えたり、他の車に無理に割り込まれたりするのだ。
泣きっ面に蜂とは、まさにこのこと。
ーーーもう、私ってどうしていつもこうなの……
容量が悪いとか、不器用とか、そういう言い訳は、もはやしまい。
私がこういった失敗をするのは、いつも自分のだらしなさのせいなのだ。
「なんとかなるでしょ精神」で、いつも前もって準備をしない。確認をしない。そんな自分のだらしなさに、心底腹が立つ。
でも、治そうともしない。そんな自分にもまた腹が立つ。
イライラが溢れて涙になりそうだった、そのとき。
『 ……~♩』
適当にかけていた音楽のプレイリストから流れてきたのは、心地良いベースの重低音が特徴的な曲だった。
これは……ヨルシカの、『昼鳶』。
ボーカルの透き通った、それでいて力強い低い声が音に乗り始めた。
『 器量、才覚、価値観 骨の髄まで全部妬ましい』
あぁ、心地いいなぁ。
こんなに攻撃的な歌詞を、歌いづらいであろう低いメロディーを、まるで朗読劇でもしてるかのようにすらすらと彼女は歌う。
気づけばサビの最後。
『この渇きを 言い訳にさぁ』
強い声から諦めたように力が抜け、緩やかなビブラートがかかる。
そのゆらぎの、なんと心地良いことか。
ブルーに透き通った水面が風にそよいで、
きらきらと光を反射して揺れている。
そんな風景が、私の頭をかすめた。
その瞬間、私の胸に絡みついていた黒いもやがふわっと消えていったのが分かった。
不思議な感覚だった。
悪魔祓いとか除霊とか信じてなかったけど、もしかしてされてる側はこんな感じなのか。
ほう。
と、1度大きくため息をついてから、私はカーナビ画面に映った『 昼鳶/ヨルシカ』の文字を見る。
そしてもう一度深く、ほう、とため息をついた。
音楽って、凄い。
「すごい」じゃなくて、「凄い」。
凄まじいのだ。
凄まじい力が、音楽にはある。
どんなにやる気が出なくても、どんなに悲しいことがあっても、明日起きたら笑顔で仕事に行かないといけない。
行ってしまえば定時には帰れない。
それが社会に出るということ。大人になるということ。
入社して2週間も経つ頃には、その現実に段々と諦めもついてきた。
そんな私を現実から切り離してくれるのは、いつも音楽だ。
小雨が降って、薄暗い朝に聞く音楽。
残業後、深夜の帰り道に聞く音楽。
悲しいことがあった翌日の朝に聞く音楽。
疲労も辛さも悲しみも怒りも、
心にどれだけ重いもやが纏わりついていても、音楽は見返りを求めずに、それらを洗い流してくれる。
心は軽くなり、自由にすいすい泳いでいける。
だから、音楽って「凄い」。
23時30分。
私は会社を後にして、駐車場まで急いだ。
明日は5時に起きなければいけない。
今から50分、運転して家に帰る。寝るのは何時になるだうか。
疲れた足で運転席に乗り込む。
スマホで音楽を選ぶ指は軽い。
今日は、これ。
エンジンをかけると、カーナビに音楽が接続された。
ハンドルを握り、ゆっくりとアクセルを踏む。
車は今日も軽快に、音の中を泳いで行く。
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