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映画『ゲド戦記』 は駄作ではない!  作品に込められた真の面白さの解明 part1

はじめに

 こんにちは!「つまらない」という先入観を取り払い、皆様の日常の見える世界をより楽しくする事を目的にnoteで活動をしております!
 記念すべき第一回は、スタジオジブリから『ゲド戦記』です。
さて、自分の胸に手を当てて考えてみてください。『ゲド戦記』はお好きですか?なんとなく世間の評価が低いから、有名な映画評論家が酷評していたから、そんな理由で作品の本当の面白さから目を背けてしまってはいませんか?「でもそんなに深く調べる時間もないよ。原作読むのもめんどくさいよ。」そうですよね…わかります!そんな忙しい現代人の皆様のために、私がわかりやすくまとめてお伝えします。
 今回この記事を読んでいただければ、きっとまたこの作品が見たくなることに間違い無いでしょう。暇な時間つぶしや、『ゲド戦記』鑑賞後に整理するためにご覧いただくことにも役立つかと思います。今回もご覧いただき、本当にありがとうございます。この投稿の画像は、スタジオジブリのHP「作品静止画」を使用させていただいております。では早速いきましょう。



世間の評価とその声

 まずは現在の『ゲド戦記』の世間の評価を見ていきましょう。
2024年8月現在Filmarks 3.1/5.0   yahoo! 2.3/5.0   映画.com  2.5/5.0 となっています。はいはいはい…こーれは不評です。
 僕もやっているFilmarksの3.1点というのは、まあ及第点といった評価といった感じですね。ただその他2つのレビューサイトの評価は不合格といったイメージでしょうか。日本が誇る世界に影響を与える最強コンテンツ「スタジオジブリ」の作品としては、厳しい評価を下された作品であることに間違いは無いでしょう。参考としてジブリ最初の宮崎駿作品『風の谷のナウシカ』はFilmarks 4.0/5.0   yahoo! 4.4 /5.0   映画.com  4.4/5.0 となっています。 
 次に世間の批判の理由としてまとめると、こんな所になるでしょう。
1.何が言いたいのかわからない。
2.ラストが意味不明のまま終わる。
3.主人公に共感できない。
4.とにかく暗すぎて、メッセージ性を感じない。
(yahoo!レビューサイトのレビューを参考にさせていただきました。)
なるほど…いいですねェ〜!!!不評ですね〜!!!!
さァそれではこの後は、スタジオジブリでありながらここまでボコボコに批判されている『ゲド戦記』、その隠れた魅力について、お伝えします。


この作品は何を伝えたかったのか

冒頭の言葉

「ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそ あるものなれ」
                       ー「エアの創造」ー
映画の冒頭という最重要シーンにこの言葉を物物しく載せていることには、必ず意図があるはずです。まずはこの言葉の逐語的な意味と作品における意味を、一緒に解き明かしていきましょう。
まず、言葉と沈黙、光と闇、生と死。この文字列を見てどんな関係性が見えますか?そうですよね。学校のテストでマルがもらえる解答は「対比関係」ですよね。それぞれ全く異なる、両極端に存在するもの。しかし、『ゲド戦記』の復習テストがあったら、きっとバツになってしまうでしょう。
重要なポイントは「〜の中にこそあるものなれ」にあります。光や生は、ポジティブで肯定的に語られる存在ですよね。対して闇や死というのはネガティブな印象を与える、マイナスな存在として否定的に語られることが多い。作品の中で、敵役として描かれる魔法使いのクモは「死にたくない」という欲望によって生を完全に肯定し、死を完全に否定してしまいます。
つまり、光や生は闇や死と対立したものとして理解するのではなく、闇があってこその光であり、闇の中にあるからこそ光は輝くのだということをこの言葉は語っているのです。光と闇を別物だと分けて考えるほど世界は簡単ではなく、非現実的なものはないのですね。
北欧には一日中太陽が沈まない、「白夜」という現象がありますよね。その地域の人々はその時期には時計がなければ体内時計が狂ったり、鬱病の発症が増加するということが医学的にわかっています。私たち人間は、太陽が出ている日中に活動をする生物ですが、しかしそれは闇、夜の存在があるからこそなのです。もしかしたら私たちは日々、暗い夜に感謝して生きるべきかもしれませんね。


理解されてはいけない主人公 アレン

 さて、続いてこの作品の批判ポイント「主人公に共感できない」ことについて解きほぐしていきましょう。
 なぜ主人公という最重要キャラクターが、お粗末な見方をされてしまうのか。その最大の原因が「なぜアレンは父である王を殺したのかが判明しない」ということでしょう。物語の全貌がぼんやりしている中でいきなりの殺害。私たちはその衝撃と共に、作中ずっと満たされない心の穴がぽっかり開くのです。「え、理由は????」そう、アレンが王を殺した動機が全く説明されないまま映画は終わってしまうのです。こういう時は本人に聞こう、ということで宮崎吾朗監督は以下のように語っています。

アレンは別に、 父親を憎んでいるとか、嫌いとか、そういうことではないんです。たぶん尊敬もしているだろうし、好きでもある。だけど、自分が陥っている閉塞感やがんじがらめな気分が抑えきれなくて暴走する時に、その矛先が誰に向かうのか?自分を取り巻いている隙間のない世界、そのある種の「象徴」が、父親だと思うんですよね。 

『ジブリの教科書14 ゲド戦記』(文春ジブリ文庫) 

つまり、主人公アレンは父を殺したかったのではなく、感情のままに「殺してしまった」のが父だったのです。このアレンによる殺害事件について、なんで殺害してしまったのだろう…と映画をみる我々は「理由」を求めてしまいますよね。だからこそ、一旦立ち止まって考えてみませんか。理解の及ばない個人の感情の暴走に理由を求めてしまう私たちにこそ、見落としている何かがあるのかもしれない、と。
気持ちいいですよね。人間の起こす現象に論理的に正しい「理由」が見つかると。なるほどー。これは面白いな。ってなるわけですよ。だからミステリー作品は面白いんです。答えの道筋を見せてくれるから。納得するから。
それに対して、動機が不可解なまま終わっていくミステリーって人気が出るはずがない、けれどそれこそがリアルで写実的だと思うのです。

皆さんは2008年6月8日に発生した「秋葉原通り魔事件」を覚えていますか?犯人はネットの掲示板を自らの唯一の居場所だったという風に語っています。その掲示板に自分の偽物や荒らしが発生して、居場所が消えてしまったという考えに陥ってしまったのです。どこにも自分の居場所がない、という人間にとって最大の閉塞感に耐えきれず、秋葉原にて犯行に及んだ。しかしその感情の爆発の矛先は、自分の閉塞感とは直接因果関係のない人々であった。爆発させるために、殺してしまったのです。

こうしてみるとアレンとこの犯人が少し近い像に見えてきませんか?
アレンも閉塞感に苦しんでいたのでしょう。ここからは考察にすぎませんが、アレンの父は王であり少ししか登場しませんが、僕の目には非常に優秀で立派な王のように映りました。そのため、偉大すぎる父を継ぐ王子としてのプレッシャーったらないですよね。わかりませんけど(笑) そういう意味では、「偉大すぎる父の殺害」をする作品を息子の吾郎さんが監督することは意味があることだったのかもしれませんね。そんなプレッシャーやアイデンティティの不安定に苦しんだアレンはその溜まった感情の矛先を父親に向けてしまったということでしょうか。
客観的にみて理解できるような犯行の動機ばかりではない、個人の複雑な感情の爆発によって生まれた犯行というものが存在する
ということを踏まえて、いざこのアレンという主人公像を見つめ直すと、なんだか少し見え方が変わってきませんか?

終わりに

書き始めたら思ったより分量を書いてしまったので、急遽part1ということにいたしました!笑
この続きはまた後日、part2という形で投稿させていただこうと思います。
次で終わればいいですけどね…
ここまで見てくださった方、本当に感謝しております。拙い文章ではありますが心を込めて作成しておりますので、よろしければ次回以降もご覧いただければと思います。
もしご興味がある方いらっしゃたら以下に、僕がレビューをしているFilmarksのリンクを貼っておきますので、ご覧いただければと思います。
改めてここまでご覧いただき、本当にありがとうございました!
https://filmarks.com/users/whataview







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