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今も息をしていることに気がつけばいいのです(富岡多恵子さんの詩「夜」を「百年のわたくし巻六」で朗読した)20231007


2023年10月7日「百年のわたくし巻六」では『現代詩手帖5月臨時増刊富岡多恵子』より富岡多恵子さんの「夜」という詩を朗読した。

富岡多恵子さんの詩には独特の語りのリズムがある。「です・ます」調で「生活」とは、そして「生活における死」がどういうものか諭されているよう。それも分からせてあげようといった類いのものではなく、こっちが相槌を入れたくなるような、そうですよね、そうですよね、と頷きたくなって、最後は、「たしかに!」と言いたくなる、そんな語りの魅力。

そこに俺の朗読のリズムをぶつける。身体のbeat(扉野良人さんいわく「ボクサーのよう」)、声の力(奥間埜乃さんのこの朗読の感想によると「声量の力を借りる表現」)、吠える、ような。その狭間で生まれる揺らぎをまず、自分で楽しんだ。

比喩も形容も粉飾も誇張もありません
声を出せばいいのです
ただ人間だから
動物のようにウオーとうなることもできなくて
なにか喋るのです
声を出し声を聴き
どこかにだれか知っていた人間が
今も息をしていることに気がつけばいいのです

「夜」富岡多恵子


俺は「比喩も形容も粉飾も誇張も」なく「声を出せばいいの」だ。この詩では素潜り旬ではなく「ただ人間だから」。そして「動物のようにウオーとうなることもできな」いのに、朗読では素潜り旬として「動物のようにウオーとうなること」になる。その揺らぎがまず、朗読の面白さであり、ただ読むだけでは味わえない体験となる。俺もお客さんも。だから俺は「動物のようにウオーとうな」った。その後「なにか喋る」ように朗読し「どこかにだれか知っていた人間」としての俺、つまり素潜り旬が富岡多恵子さんに代わり、伝える。この場にいるすべてのひとが「今も息をしていることに気がつ」いてもらえるように。それは、富岡多恵子さんの不在から浮かび上がる富岡多恵子という人。俺はこの「百年のわたくし巻六」にぴったりな朗読をしたつもりでいる。

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