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「裸のランチは午前のうちに」クローネンバーグ『裸のランチ』エイガシVol.2①

裸のランチは午前のうちに。「パスタで巻いた靴」で俺はこう書いた。ゲロにまみれた部屋ふうのきたない部屋。そこで執筆して二時間が経ち、今年公開された『ヴァチカンのエクソシスト』が観たいと思うにはあと四年はある。
TSUTAYAにあった『裸のランチ』DVDのパッケージを観た高校時代・・・
小説は読んだしバロウズは好きだが、こんなグロテスクなものは観る気がしない・・・
観るなら午前だ・・・
クソみたいな記憶・・・を引っ張りだしてそのまま書いた。あの日。それが詩集に表題詩として載っている。のだが、ちょっと待って。コダックで肛門を撮ったらバラのようだ。素晴らしい気づき。誰かに教えたくなる。これをコンクリート・ポエトリーとして世に出せば、俺は発明者になるのだろうか。いや、肛門の隠喩なんてくだらない。みんな持っているのだから。あ、違うかも、みんな持っているからこそだ!隠したがる。肛門を見せて歩いている奴なんていない。誰しもが肛門の隠喩だ。

薬物常用者は何度か見かけたが映画ほど格好の良いわけではない。ケイレブ・ランドリー・ジョーンズのあの眼は芝居。狼が抱えた感情のはけ口が俺だった、みたいな喪失感。砂に埋もれている足、ホットプレートで焼かれた腕。差し出した頬。

現在ついに手にした『裸のランチ』を再生する。水生ムカデのステーキ、気色の悪いタイプライターの肛門が喋っている、肛門、肛門、肛門。午前に観たせいでこれから食う飯が全てまずくなる呪いにでもかかった気がする。なにが「裸のランチは午前のうちに」なのか。それでもエンジョイする。ここでは球体は見かけない。全てが細長く、吸い上げるエイリアンの液体。するするすると入っていく、人間に馴染んでいく、駆除薬の粉末。息を吹きかけるだけで死んでいく害虫たち。煙草の煙と混じるとイカれるのは誰だ。クローネンバーグの頭をウィリアム・テルごっこで撃ち抜いたらどうだろう。なぜこのエピソードを入れる必要が?それはウィリアム・リーの映画ではなくバロウズの映画だからだ。くそ!身体を綺麗にしたくなってきた・・・風呂・・・水・・・花・・・この部屋には何でもある。

肛門と狼、これがなにを意味するか思い出せない。習癖ノートをひらく。丁寧に付箋を貼ったページには睡眠薬の効能が書いてある。俺調べ、詩人S調べ、作家L調べ、それぞれの結末を何匹も登場するタイプライターに打ち込んでいく。奴らは生きている。と見えている。と言える。というように見られている。客観的な俺はもういないが、代わりに奴が俺に声をかける。「それで気づけるというわけさ!」頭痛・・・オーネット・コールマン・・・を聴くたびに起こる・・・それをサーヴィスと呼ぶ・・・ああ・・・またサーヴィスがやってくる・・・

文学的なハイあるいはカフカ・ハイ、駆除薬から得た独占的な姿勢で座るソファが沈み、漆黒の音圧で分解されかけた俺は、元に戻るために脳内に城を築き俺らしきモノの一致団結に努めた。ただ、そこから出て行くのがいつになるのかわからない。ずっと俺でいられるのか・・・二度目のウィリアム・テルで帰ってくるとは思うのだが・・・報告書を用意しないと・・・ありとあらゆる可能性を考慮して肛門に詰め込む。際限ある思考。回数券のようなひらめき。インターゾーンとは・・・

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