見出し画像

パパ、ママ、あのね・・読書記録

画像1


もう一度モンテッソーリに行き着く

モンテッソーリとの出会いは長男がまだ小さいころ。次男が生まれ、異年齢の子どもたちと過ごす時間が長く、これまでのように長男につきっきりではいられなくなり、長男との付き合い方に悩んだ時期に出会いました。
自分でできるようになったらいいな。わたしも楽になるな。そんな大人の都合から出逢ったので、スタート時点から間違っていたのかもしれないと今は思う。その時は目の前のしんどさをどうにかして明るい未来に繋げていきたかった。

子育ては親がすることではない

モンテッソーリは子育ては親がするものではないと言います。子どもの中には「自分を育てるチカラ」がちゃんと備わっていて、自分で・自由に仕事に向き合うことによって、自分を満足させ成長していくんだそうです。

どうか、どうか邪魔しないで。

私から見ると、子どもたちはむちゃくちゃなことをやります。
壁に絵を書いたり、布団にカラーペンで落書きしたり、紙を口に入れたり、片付けなかったり…してほしくないことのオンパレードでした。目くじらを立てて怒り、叱り、子どもたちを躾てました。

でも、モンテッソーリは

どうか邪魔しないでください

と言います。私にとって「めちゃくちゃ」に見えることでも本人にとっては何より魅力的で攻略したい「仕事」 の最中なんですって。

_| ̄|○ il||li

わたしは常に彼らの楽しみを邪魔し、取り上げてきました。母親はどうしたって抗えない存在なのに…(ヽ´ω`)ヤッチマッタよ。

口を出したほうが楽だけど、息子は私のものじゃない

あれやれこれやれと毎日のようにいってきた。
出かける前には「忘れ物はない?」「もう出る時間だよ」「靴はちゃんと履きなさい」
帰ってきたら「ランドセルはランドセル置き場に置きなさい」「宿題やりましょう」「使ったもの出して」
その後も「お風呂入りなさい」「ご飯食べなさい」「もう寝る時間だよ」「ちゃんと歯磨いて」

書いててうんざりするよ。うるせぇ母親(私)。
で、言ったところでやらない。言わなくてもやる。どっちにしても、本人がやるのだから、私の口出しは要らないじゃん。
私が気になるから言ってた。私がちゃんとしないと顔が立たないじゃん、ってホントは思ってた。
でも……子どもたちは私じゃないし、私のために生きてるわけではない。
ましてはわたしは「私のために生きてほしい」とは思ってない。じゃぁ、もう辞めよう。

どうしよう…を奪わない

学校にはあるルールがあります。

忘れ物を取りに来てはいけません。
忘れ物は届けないでください。

これは、忘れてしまった経験を奪わないでくださいという意味があります。
忘れてしまった、じゃあどうする?失くしてしまった、じゃあどうする?を学ぶ・考える機会を子供に与えてくださいということらしいです。
何かに困った時、人は初めて自分事として考えます。それがどんな結果であれ「自分で考えた答え」は本人の生きる力になります。人生は経験でできてます(沖縄の道端の看板に書いてあった)。で、私が口を出していたことというのは、子供たちの考える経験をしらみつぶしにしてきたのと同じこと。

私も、こうやって自分事になって初めて心に刻まれる。人生とはマジで経験だ。

やがて独りで生きるあなたへ。

本当は小さいころからそうしたかった。小さいころから当たり前のように英語を話している環境にいた子供は英語のネイティヴになれるように、自分で考えて自分で行動するのネイティヴにしたかった。
でも、今からでも遅くはない。過干渉を…いや、干渉をやめます。干渉から観察へ。指導から見守りへ。やがて、独りで生きていく子どもたちが困った時に顔色をうかがうことなく素直に頼れる親に変わっていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?