見出し画像

言葉の時間旅行

【1】

 あれは、わたしがななつくらいの時でした。
 お母さんが家を出て行ってしまいました。

 お母さんは地下にわたしのことを閉じ込めて、『ここで待っていなさい、すぐに帰ってくるから』とだけ言いました。
 まさかそれが母親との最後だなんて思いもしなかったわたしは、きっと何の変哲もないお願いの一つだろうと思い、それを受け入れました。

 一日、二日、暗い地下でわたしはお母さんの帰りを待っていました。
 けれど、お母さんはなかなか帰って来ませんでした。

 ----お母さんに会いたい。

 そう思ったわたしは、地下室の外に出ようとします。
 しかし、地上へと上がるための扉は閉ざされており、小さく非力な子供ではこじ開けることができませんでした。
 諦めて膝を抱えて地下室の隅に座っている間にも、おなかはどんどん減っていきます。お母さんは全然帰ってきません。

【2】
 
 ----ずっとこのままで死んでしまうのかな。

 わたしはとても悲しくなりました。

 ----お母さんは、どこに行ってしまったのだろう。
 ----まさか、わたしのことを忘れてしまったなんて、そんなはずがない。
 ----なら、家に続く橋が壊れてしまったのかもしれない。
 ----もしかすると、出かけた先で危険な目にあっているのかもしれない。
 ----辛い思いをしている今のわたしなんかより、おかあさんはよっぽど辛いのかもしれない。
 ----だったら、わたしが助けに行かなきゃ。

 そう思うと、よくわからない力が湧いてきました。

 自分一人の力ではどうしようもないのなら、他の力を使うほかありません。
 地下室の中にあったたくさんの書物やガラクタを一箇所に集め、それを無理やり扉に向かって押し倒しました。
 その勢いで扉が開いたので、わたしはやっと地下室の外に出ることが出来ました。

【3】

 数日ぶりに地下室を出て居間に上がったわたしは、目の前に映し出された光景に驚いてしまいました。
 お母さんとわたしが一緒にご飯をたべていたテーブルは真っ二つに折れており、箪笥の中はぐちゃぐちゃに荒らされ、おまけに家の壁にはたくさんの落書きがありました。
 わたしはまだ文字が読めなかったので、そこに何が記されていたか、全然わかりませんでした。
 けれど、信じられないほど荒れた我が家を目にして、お母さんはどこにいるのだろうというか、無事なのだろうか、そんな思いが渦巻いて……怖くて怖くて、仕方がありませんでした。
 けれど、その恐怖からわたしは必死に目を逸らします。
 
 ----お母さんは、きっと外で迷子になっているんだ。
 ----だったら、わたしが助けに向かわなきゃ。

 そう思ったわたしは、玄関の扉を開こうとします。
 けれど、それよりほんの少しだけ早く扉は勝手に開いてしまい、扉の向こうから知らないおじさんが顔を出しました。

【4】

 ----誰? 怖い!

 わたしにお父さんはいません。
 ずっとお母さんと二人で暮らしていたから、これほどまでに大きな男の人と向き合うことに慣れていませんでした。
 身がすくみましたが、それでも必死に恐怖を堪えながら、わたしは言いました。

「あなたは、だれですか。お母さんがどこにいるか、知っていますか」

 男は痩せ細ったわたしの身体をじっと見つめて、それから視線を上に向けてから、大きなため息をつきました。

「……ガキの遺体が転がってることくらい、覚悟してたんだけどな……むしろ、生きてる方がよっぽどタチが悪い」
 頭の後ろを無造作に掻いた後、その男はもう一度わたしの方を見ます。

「とりあえず、家の中に戻れ。玄関には近づくな」
「……いやです、お母さんを探しに行くんです」
「……戻れと言っている」

 睨まれると、背筋がぞくっとしました。
 わたしは必死に睨み返そうとしましたが、そう長くは保たず、すぐに目の前の知らない大きなおじさんに圧倒され、泣き出してしまいました。
 おじさんはそんなわたしを強引に抱えて、家の中へと引きずり込み、内側から鍵を占めてしまいました。

【5】

 何十分間もの間、涙を流したり、玄関を無理やり開けようとして取り押さえられたりした後、やっと多少落ち着いたわたしは、おじさんと会話をしました。

「あなたは、だれですか」
 おじさんは何も答えません。
「わたしのお母さんは、どこに行ってしまったのですか」
 おじさんは何も答えません。
「わたしはお母さんを探しに行きたいんです、行かなきゃいけないんです」
「この家から、出てはいけない」
 おじさんはそこでやっと口を開きました。
「家の外は危険だらけだ。ここは、この国の中でも特に治安の悪い町だからな。お前も母親にそう言われて育てられただろう」
「……だからこそ、です」
「どういう意味だ」
「危険なお外で、お母さんが困っているのだとしたら、誰かが助けにいかないといけないでしょ?」

 精一杯の勇気を振り絞って、わたしは自分の意見を伝えました。
 おじさんは長い時間、わたしのことをぎろりと睨みつけていました。
 負けるわけにはいかないと思ったわたしは、おじさんを精一杯の悪人顔で睨み返します。けれど最後には涙がじんわりと溢れはじめてしまい、先に目を逸らしてしまいました。

【6】

 ああ、またさっきと同じです。わたしは弱い子です。
 そんなわたしの姿を見て、おじさんは口を開き、静かな調子で話し始めました。

「大丈夫だ。お前のお母さんとやらは無事だ。助けてくれる人も、他にいる。お前よりもずっと強い大人が、お前の母親を助けている」

 ----よかった!

 それが真実かどうかなんて疑うこともなく、わたしは少し安心してしまいました。余程気が張っていたので、それを信じる他なかったのです。

「なら、お母さんのことは心配いらないのね。けれど、どうしてあなたはそんなことを知っているの? おじさんは、お母さんの知り合いなの?」

 おじさんはしばらく考えて、「そうだ」と言い、首を縦に振りました。

【7】

「こんな身なりをしているが、俺はさすらいの詩人なんだ。旅の途中でお前の母親に頼まれて、帰るのが遅くなるから、少しだけ面倒を見てくれと言われた。だから、ここに来た」
「そうだったのね。お母さんはその時、どこにいたの?」
「どこに? ……そうだな、ここよりずっと東の、別の国だ」
「お母さんはどうして、そんな遠い場所に行ったの? 何が欲しかったの?」
「……東に行くとな、ここでは手に入らない植物があるんだ。それは、万病を治すという薬の材料になっている」
「じゃあ、お母さんはその植物を集めに行ったのね?」
「そうだ。けれど遠いところだから、帰ってくるまでにもう少し時間がかかる。だから、お前の母親が帰ってくるまでは、俺が世話をする。わかったな」
「…………はい」
 わたしは頷きました。

【8】

 そうして詩人のおじさんは家に住み、わたしの世話をするようになりました。
 知らない男と暮らすことに対し、初めの頃は不安を抱えていましたが、おじさんが見た目の割に恐ろしい人でないことに気付いてからは、そんな気持ちも少しずつ和らいできました。

 ----いい子にしていないと、お母さんはきっと帰ってこないよね。

 そう思ったわたしは、荒らされた家を掃除したり、おじさんの分までご飯を作ったりして日々を過ごし、お母さんの帰りを待っていました。
 泣き言なんて、言ってはいけない。そう自分に言い聞かせながら。

【9】

 けれど、やっぱりお母さんが恋しくて仕方がないわたしは、夜になると寂しくて何度も何度も泣いてしまいました。
 その度に、詩人のおじさんは不器用ながらにわたしを慰め、お話を聞かせてくれました。

「東の国の話が、聞きたいか」
「東の国? お母さんが向かった場所のこと?」
「……ああ、そうだ。お前の母親が向かった先はな……龍が住んでいた町なんだ」
「龍?」
「ああ、それも、首が三つある龍だ」
「おじさんも、その龍を見たことがあるの?」
「……旅の途中で出会ったよ。ずっと昔にな」
「けど、そんな危ない龍がいるのなら、お母さんの身が危ないわ」
「いや、龍はな……その国の王子様が、やっつけてしまったんだ」
「王子様が!? どうして王子様が戦うの? 偉い人は、戦いをほかの兵士に任せて、安全な場所にいるって、お母さんから聞いたことがあるのに」
「それは……多分、良い王子様だったんだろう」
「ふうん、世の中には、不思議な生き物も、不思議な王子様もいるのね」

 その他にも、おじさんは毎日違うお話を聞かせてくれました。
 ここから離れた色んな町について、人や、建物や、伝説なんかを、毎日毎日、たくさん。
 そういった話を聞くたびにわたしの涙は渇くのです。そして、目を輝かせておじさんの語りに聞き入ります。
 お母さんがいなくなった悲しみは、少しずつ薄れていきました。

【10】

「おじさんは、これまではどこに住んでいたの?」
「……いろいろな場所を、転々としてきた。旅の吟遊詩人だからな。東の国で、お前のお母さんと出会う前は……そうだな……少し北の、山奥の村に暮らしていた」
「山奥の村? それはどんな場所?」
「……ここよりも空気がうまい場所だ」
「どうしてそこを離れたの?」
「……まあ、細かいことはいいだろう」
「説明してよ」
「………………はあ」

 おじさんはやれやれという表情をしました。

「それはな……そこに魔女が居たからだ」
「魔女?」
「ああ。すこし離れたところに、村を滅ぼす程の力を持った魔女がいる、っていう噂があった。村人たちはいつも、それに怯えていたな」
「それは、すごく怖い……」
「けれど、本当は優しい魔女じゃないか、なんてことを言っている人もいたんだ」
「魔女なのに、優しいの?」
「ああ、むしろ、『話したこともないうちからその魔女を恐ろしいと決めつけ、排斥してしまった村人に問題がある』なんてことを言う人間もいた」
「話してみなければ、その人の優しさはわからないものね……おじさんみたいに!」
「…………放っておけ」

【11】

 物語だけでなく、おじさんは色々なことを教えてくれました。
 料理の仕方、人との話し方、正しい振る舞いの作法、なんかをたくさん。
 (今考えると、それはまるで嫁入りする前の修行みたいでした。)
 外にも出ず、誰とも関わることができない……にも関わらず、わたしはある程度まともに育ち続けていました。おじさんのしつけが良かったのでしょう。そういうことにしておきましょう。

 けれど、どうしても文字の読み方と書き方だけは教えてくれませんでした。

「どうして、文字を教えてくれないの?」

 わたしがそう尋ねても、おじさんは「女に読み書きは必要ない」の一点張りでした。

 わたしはそう言われるたび、不満を覚えました。
 もし読み書きができたなら、本が読めます。
 そうしたら、おじさんの教えてくれるお話以外にも、たくさんの物語に触れることができるのに!
 
 けれど、仕方ないからそのまま過ごしていました。
 他に文字を教えてくれる人も、不満をこぼす相手も、誰もいないのですから。

【12】

 おじさんがわたしの家に住み始めて、数年の月日が経ちました。
 その頃にはわたしはもう、おじさんと出逢った時よりも少しだけ分別のつく少女になっていました。
 つまり、どういうことかというと……『お母さんは帰ってこない』ということに、薄々気づき始めていたのです。
 それは年端も行かない少女にとっては大変辛く苦しい事実でしたが、それでもわたしはなんとか乗り越えることができていました。
 たった一人であれば頭がおかしくなっていたかもしれませんが、仏頂面のおじさんが話相手になってくれていましたから。

【13】

 ある日のことです。

「この町を出るぞ」

 食事をしている最中に、おじさんはそう言いました。

「いつ?」
「明日の晩だ。準備をしろ」

 あまりに唐突だったので、わたしは呆気に取られてしまいました。

 家の外に出ることすらなかったわたしは、一気に町の外へ行くことになります。

【14】

 おじさんとわたしは、真夜中に家を抜け出しました。
 きっと、町の人に見られてはいけない理由があったのでしょう。

 数年ぶりに見た自分の町は、記憶よりもずっと汚れていました。

 その時わたしは久しぶりに、この町はそこらじゅうに死体が転がっているんだということを思い出しました。
 幼い頃はそれほど気にも留めませんでしたが、久々に見たそれはあの頃よりも一層おぞましく思えて、わたしは移動中何度かえずいてしまいました。

 辺りが白み出した頃にちょうど港町にたどり着いたわたしたちは、朝一番の船に乗って、遠い国へ向かいます。
 他の乗客に聞き耳を立ててみると、国の外に出る船なんて、めったにないのだと話していました。おじさんは多分、どこかでこの船の情報を聞きつけていたのでしょう。

【15】

「これから、どこに向かうの?」
「一度、東の港町に到着する」
「その後は?」
「……わからない」

 それを聞いてわたしは少し不安に思いましたが、それを悟られまいとしました。
 数年過ごすうちに、おじさんの無表情にも少しの変化があるのだということに、わたしは気づいていたのです。
 そして、その時のおじさんの無表情は、かなり余裕のないものでした。
 だから、わたしまで不安をこぼすわけにはいきません。
 そう、思いました。

「そっか、おじさんは旅の詩人だから、行き先なんて決めなくてもいいのね?」
「……ああ、そうだな」
「さすがだね」

 わたしはおじさんに微笑みかけました。

【16】

 けれど、結局おじさんは『一度、東の港町に到着する』ことすらありませんでした。
 船に乗って数日経った後、わたしたちに、嵐が襲い掛かったのです。
 予定ではあと1、2日で到着する、そんなタイミングでした。
 
 嵐は船を揺らし、雨水や海水が襲いかかります。
 わたしは船内で必死にしがみつきました。

 波は船の中にまで容赦なく侵入してきました。

 海はまるで一つの意志を持っているかのようでした。
 本当はそんなはずないのですが、波も雷も、わたしたちの船だけを目がけて襲い掛かっているように思えました。

 ----わたしは、何かを試されているんだろうか?

 突然家を出なければならなくなり、加えてこんな災害に見舞われました。不便だけど穏やかな日々は、たった数日で激しく変化してしまいました。
 ただひたすらに流されまいと必死になりながらも、わたしは目を瞑って考えていました。

【17】

 どれくらいそうしていたでしょうか。
 気づけば嵐は過ぎ去っており、表に出たわたしの頬をそよ風が撫でました。海面は穏やかに漣を立てていました。

 ----やっと、終わったのね。

 安堵したわたしは、自分の無事をおじさんに伝えようとして、船の中を見回しました。

「おじさん……?」

 けれど、おじさんの姿は、どこにもありませんでした。

【18】

 他の乗員の様子から、全員が全員無事というわけではないことが判明しました。
 波に流された人を目撃したという人もいました。
 それでも船はなんとか港に辿り着き、わたしはひとりでその町に降り立つことになりました。
 新しい町、知らない町です。わたしはこれからどうしていくべきか、ここで考えなくてはなりません。

 しかし、一人で何ができるというのでしょうか?

【19】

 わたしの住んでいた町とは違い、その町はとても綺麗でした。
 港の方では仕事を終えた漁師たちが大きな声で楽しそうに談笑しています。もう少し陸の方へ歩くと、露店の前で主婦たちが果物を物色していました。公園に行くと、子供たちは追いかけっこをしていましす。
 まるで、それらのひとつひとつが幸福を象徴しているかのようでした。

 不思議な話です。たった数日分離れた町ではたくさんの死体がそこらに転がっていて、町中が腐敗臭に満ちているというのに。そんなことはつゆ知らず、彼らは世界に何のいさかいごともないかのような顔をして、微笑みを浮かべているのですから。
 
 ----そっか。
 ----自分達の外側なんて、いっそ知らない方がいいんだ。
 
 この町の人たちは、外側の世界との間に壁を作ることで、穏やかな世界を構築しているんだ。そう考えました。

 よく考えてみれば、これまでのわたしだって、そう変わりません。
 家の中に閉じ込められていたからこそ、自分の町があんな状況だということを忘れていて、平穏な暮らしができていました。
 多少の不自由や不満こそありましたが、ただ、それだけでした。

【20】
 
 その時わたしは、『平和は境界を引いた内側でしか存在しないのではないか』と考えました。
 外側を見ないようにすることで、目を背けることで、初めて平和を享受できるのだと、そう思いました。
 
 だとすれば、自分はこの町の人々にとって、目を背ける対象なのでしょう。
 当然です。わたしはひどく醜く、汚れていましたから。
 お金も、住む場所も、知り合いも……今のわたしは何一つ持っていません。
 食べ物を買うことも、仕事を探すことも、ままならなかったのです。
 
 わたしは、自分がここに来たことがそもそもの過ちだったのだろうと考えました。
 あの海はきっとその『平和の境界』で、それを穢れたわたしたちが乗り越えようとするのは分不相応なことで、だから通行量として、あのような嵐が襲い掛かったのではないか。
 そう思わずにはいられませんでした。

【21】

 結局、行き所のないわたしは公園に座り込み、そこでただ呆然とするほかありませんでした。
 こんな自分が存在をかろうじて許されるのは、このただっ広い公園くらいなのだろう、市場や住宅地は狭すぎて、幸せな港町の人間達のぶんのスペースしか空いていないのだろう、そう思いました。
  
 ----おじさんに会いたい。

 そう思いながら、暖かい日差しと柔らかな芝のもと、気絶するように眠りに落ちていきました。

【22】

 身体を揺らされていることに気づいたわたしは、おそるおそる半目を開きます。
 誰かがここを立ち退けと言いにきたのだろうか、そう思いながら見つめた先に居たのは、わたしよりも小さな男の子でした。
 目が開いたことを確認した少年は、わたしに質問をしました。

「お姉さん、どこから来たの?」
「……ここから、ずっと西」
「西なんてないよ、だって一面海だから」
「……海の向こう」
「えっ、海の向こうに、人が暮らしてるの」
「……うん」
「ねぇ、どんな場所だったの、海の向こうの町は」
「……わたしが住んでたのは、あんまりおもしろい場所じゃなかった」
「そっか、そうなんだ」

 少年は残念そうな顔をします。
 わたしはなんとなく、このまま彼の顔を曇ったままにしておくべきではないと感じました。

「……けれど、綺麗な町もあったよ」
「ここよりも、ずっと綺麗な場所?」
「……そうね、建物が全部真っ白な町、とか」
「どうして真っ白なの?」
「……日差しが眩しい場所だから、熱が籠らないようにしてた、って言われてるけど……」

【23】

 わたしはおじさんのことを思い出しながら、話を続けました。

「……でも、その町には言い伝えがあるの」
「言い伝え?」
「……うん。ずっと昔、そこに真っ黒の化け物が現れて、勝手に家に入り込んでは、町の人を苦しめていたの。けれど、真っ黒い化け物は、自分達と正反対の真っ白い家のことだけは苦手で、入れなかったの」
「それで家を全部白くしちゃったんだ」
「そう。だから今でも、その町の人たちは家の外側の壁を丁寧に磨いたり、頻繁に塗り直したりしてる。『綺麗にしていないと、真っ黒い化け物が帰ってくるぞ』って、言い伝えられてるから」
「そうなんだ……真っ白い町、綺麗なんだろうな。行ってみたいな」

 ほんとうのことを言うと、わたしはそんな町、見たこともありませんでした。『綺麗な町もあったよ』なんていうのは強がりです。
 ここ数年、自分の町どころか、自分の家すらも出ていなかったのですから当然でしょう。
 だから、おじさんから教えてもらった物語をそのまま伝えただけです。

【24】

「はい、これ」
 少年は持っていたパンをわたしに譲ってくれました。
「……いいの?」
「うん、お母さんに言われてるんだ。『与えられたら必ず何かを返せ』って。……まあ、おつかいのパンがなくなったら怒られちゃうんだけどね」
 そう言って少年は笑いました。
「……そんな、わたし、何も持ってない。あなたにあげられるものなんて、何も……」
「ううん、ついさっき貰ったよ」
「……え?」
「面白い話を教えてもらったから。食べ物や服じゃなくたって、言葉やお話にも、価値はあるでしょ?」

 わたしよりも小さい男の子は、わたしとは比にならないほどの知性を蓄えているように思えました。
 これが、教養というものでしょうか?
 ……いえ、これは彼が自分自身で培ったものなのでしょう。

【25】

 それからわたしは毎日、この公園で子供たちにお話を聞かせました。
 二人で暮らしている数年の間に、おじさんから教えてもらった異国の話は膨大な量で……どれだけ話しても、尽きることはありませんでした。
 
 わたしはそれに加えて、自分で考えた物語を話すようになりました。
 あの家に住んでいる間、おじさんから教えてもらった話を聞いているうちに、自分の「こうであってほしい」が膨らみ続けていたのです。
 公園でお腹を空かせている間、何もすることがなかったわたしは、そんな空想で時間を潰し続けていました。
 初めは反応に怯えていましたが、ありがたいことに子供たちは架空の物語を喜んでくれました。

 子供の親、散歩をしている老夫婦、漁帰りの男の人たち----
 子供たちだけだった聴衆は少しずつ増えていきました。
 そういった人たちが、お礼にほんの少しずつ、食べ物や衣服を分けてくれました。
 雨が降った日は、寝床を与えてくれることもありました。

 仕事もお金も、なんにも持っていないままでしたが、それでも笑ってくれる子供達や、優しい大人達のおかげで、わたしは満たされた気持ちになりました。

【26】

 そんなふうにしてなんとか生きながらえていた、ある日のことです。
 わたしがいつものように物語を聞かせていると、見慣れぬ格好をした人たちが数人ほど座っていることに気が付きました。
 その人たちは一人一人が違う色の目をしていて、違う色の肌をしていました。

「きみ、僕たちと旅をしないか」

 その日の物語を皆に聞かせ終えた後、彼らのうちの一人がわたしに話しかけました。
 彼らは、自分達を旅する劇団だと言いました。
 
 世界各地を渡り歩き、無償で講演を行い、老若男女や貧富を問わず全ての人間をほんの少しだけ豊かにする、それが彼らの目標でした。
 
 初めは、ほんの数人で構成された団体だったそうです。
 けれど、その旅の中で巡り合った人間がひとり、またひとりと彼らの目標に賛同し、仲間になりました。
 そしてその中には、わたしと同じように身寄りを失った人間もいました。
 今や、百人にも届きそうな程の大劇団になっているそうです。

「きみの物語にはきっと力がある。僕たちのために、手を貸してくれないか」

【27】

 ----わたしの物語に、力?

 あまりに現実感のない、突拍子もないような話だと思いました。けれどどうやら、彼らは本気みたいです。

「あと数日はこの町に滞在するんだ。だから、僕たちが次の町に向かう前に、決めておいておくれよ」

 彼らにそう言われたものの、わたしはなかなか決めあぐねていました。
 正直、故郷やこの町以外の世界に興味はありました。あれだけおじさんの話を聞いて、そのうえ自分でも語っていたのです。それをこの目で見てみたいという気持ちは、募りに募っています。
 そして、彼らがはっきりわたしを必要だと、わたしの物語に力があると言ってくれたことは、心から嬉しいことでした。
 
 けれど、同時にわたしの中には罪の意識が芽生えていました。

 ----これだけお世話になってきた町を、そんなあっさりと離れていいの?

 何も持たぬみすぼらしいわたしの話に耳を傾け、生きることを選ばせてくれた、そんなこの町の人々の元を離れていいのだろうか、そんな不安が頭のなかを駆け巡っていました。

【28】

 そんな時、一人の男の子がわたしのもとを訪れました。
 かつて、初めてわたしに話しかけてくれた少年です。

 彼は、わたしの劇団との話をどこかで聞いていたようでした。

「お姉さん、いってらっしゃい」

 少年は顔を合わせてすぐに一言、そう言いました。

「でも……わたし、この町に救われてきたのに……」
「いいんだよ。僕たちは、十分に素敵な物語を聞かせてもらえたから。それに、僕たちよりも物語を必要としている人が世界のどこかにいるはずだよ」
「わたしの物語を……必要としている人?」
「もっと、日々の生活すらままならないような人にも。外の世界のことなんか、知る余裕もないような子供達にも。その物語を伝えるべきだ」
「……そんな人たちに、本当に物語を伝える必要があるの? ただ、楽しいお話を分けてあげるくらいなら、ご飯を分けてあげる方が、よっぽど価値があるんじゃないの? あなたたちがわたしにそうしてくれたように……」
 少年は首を横に振ります。
「言葉や物語がもたらすのは楽しみだけじゃない。それは一面に過ぎないんだ」
「楽しみだけじゃない……?」
「娯楽の前には衣食が必要だけれど、それよりももっと前に必要なのは『勇気』、つまり、生きる活力だよ」
「……………………」
「僕や、この町の人たちは……少しくらいなら、衣類や食事を施すことができると思う。けれど、それは彼らの心の奥底を救うものにならないかもしれない。一時的な解決にしかならないかもしれない」

 けれど、物語には、それを解決し得るような力があるのだ。
 そう彼は言いました。

「ほんとうにひたむきな物語なら、正しい言葉なら、人の心を満たすことができるから」
「でも、そんな力が、本当にわたしの語る言葉の中にあるの」
「うん、僕はそう信じてる。だから君は、『勇気』を届ける人になるべきなんだ」

【29】

 旅立ちの日には、少年だけでなく、わたしの語りを聞いてくれた皆が見送りに来てくれました。
 未だ罪悪感を抱えたわたしのことを、みんながみんな笑顔で手を振ってくれました。

「…………ありがとう、わたしはあなたに、この町の人々に、何度救われてきたのかわからない」
「大丈夫だよ。みんな同じくらいのものを、君の物語から貰ったよ」
「でも、それじゃ到底足りないくらい、あなたたちに救われてきた……それなのに」

 視界が滲んでしまいます。

「泣かないで。君は自分の価値を、言葉の価値を、もう少し誇ってもいいんだからさ」
 
 少年は、そんなわたしの手を優しく握り、劇団のみんなのもとまで一緒に歩いてくれました。

 わたしは自分を深く恥じました。
 この港町を訪れた時に抱えた劣等感を、幸せな人々に抱えていた偏見を、取り消しました。

 彼らは、自分達の外側にある人間のことを忘れてなどいなかったのですから。

【30】

 そうしてわたしは劇団の一員として、台本を作る役として、一緒に旅を始めました。
 しかし、すぐに問題が発生します。
 わたしは文字が書けなかったのです。
 口頭で物語を伝えることはできますが、それを実際に台本に残すことはできませんでした。

「誰かに聞いてもらって、代わりに書き記してもらうこともできるけれど……折角だ、文字を覚えてはどうかな」

 そう言われたので、わたしは文字を覚えることにしました。

【31】

 文字は、わたしの中の革命でした。

 それまでのわたしにとって、言葉や物語は生き物でした。
 同じ話をしていても、その時の調子や言い間違い、そういったもので見せる顔は大きく変化します。
 良くも悪くも、そういうものなのだと思っていました。

 けれど、文字に起こした物語は少し違います。
 言葉を、感情を、残しておけるだなんて、そんなことがあっていいのでしょうか。
 
 一度書いたものは、永遠になります。
 今だけでない、未来の誰かに向けて、物語を紡ぐことができます。

 ほんの少しだけ、ことばは時間旅行をします。

【32】

 たくさんの物語を台本にしながら、わたしは劇団と各地を巡りました。
 通りかかったどんな町でも、劇をしました。

 理解されないこともありました。
 石を投げつけられたことだってありました。
 賊に襲われそうになり、命からがら逃げ出したこともありました。
 
 それでも、わたしたちは旅を続けました。 

 西へ東へ、海の向こうへ。
 
 そしてついに、わたしたちは自分のかつて住んでいた町を訪れました。

【33】

 町はやはり、あの頃と変わらず澱んでいて、死体だらけでした。
 これまで何度も治安の悪い場所を訪れましたが、わたしの故郷はその中でも特別におぞましい場所でした。

 ----家は今、どうなっているのだろう?

 気になったわたしは、かつての自分の住んでいた狭い家へと向かいます。
 どうやら、他に誰かが住んでいるわけでもないようでした。
 ひょっとすると、おじさんが帰ってきて再び住んでいるのかも、そう期待もしましたが、裏切られてしまいました。

 ----誰も住んでいないのなら、少しくらい中を除いても、怒られないよね。

【34】
 
 自分の家に入ったわたしは、大変驚きました。

『この娼婦が』
『借金を返せ』
『殺してやる』
『何が駆け落ちだ』

 母親がいなくなると同時に現れた壁の落書きや、家の前に貼られていた紙に書かれていたのは、全部が全部、目を背けたくなるようなおぞましい言葉だったのです。わたしのお母さんが借金と共にこの町を捨てて逃げたという事実だったり、それに対する心の無い町の人たちからの罵詈雑言だったり、そういう内容のものでした。

 子供の頃は読めなかった文字が、明確な悪意となって心臓に突き刺さります。

 ----ああ、やっぱり母親はわたしを捨てたんだ。
 わたしはひどく傷つき、悲しみに暮れました。

【35】

 けれど、そうしているうちに一つの事実に気がついたのです。

 ----もしかすると、おじさんはずっと、わたしを守っていたの?

 不器用だけど優しいおじさんが、頑なに文字だけは教えなかったこと、それがわたしにとっては長らくの疑問でした。
 文字を教えなかったのは、壁一面に書かれた悲しい真実をわたしが理解できないようにするためだったのかもしれません。

【36】

 どうしても真実が気になったわたしは、町の人々に話を聞くことにしました。
 町の多くの人がおじさんのことを知っていました。ある程度仲の良かった人も見つかりました。
 そのため、情報はある程度簡単に集まりました。

 おじさんは、旅の吟遊詩人などではありませんでした。

 あの日、おじさんは家の前にずっと立っていたのだそうです。理由は、お母さんの帰りを待つため。
 どうしてそんなことをする必要があったのかというと……

 おじさんは、借金取りだったからです。

【37】

「あの家にずっと住み着いていた奴? 知ってるよ、身体の大きくて無愛想な男だろう」
「どうしてその人があの家に住んでいたのか、ご存じでしょうか?」
「どうしてって、詳しいところまではわかんねえけど……単にあの家の所有者だったんだからじゃないのか?」
「所有者?」
「ああ、その前は娼婦の女とその娘が二人で住んでたんだけどな……夜逃げしちまったんだ」
「そうなんですか……」
「聞いたところによると、たまたま国の偉いヤツが女のことをいたく気に入ったらしい。それで、そいつがこの町を出ると一緒に、居なくなってたんだそうだ」
「つまり、駆け落ちだった、ということですね」
「一緒に姿をくらませたから、娘も一緒に行ったんだろうな」
「……………………」

【38】
 
 もしそれが本当なら……やはりわたしは捨てられたのでしょう。けれど流石に、もうそのことに驚くようなことはありませんでした。

「あの男を含め、借金取りだった奴らはしばらくの間、家に張り付いて女の帰りを待ってたよ。けど、途中でもう戻ってこないと判断したんだ」

「金が無いし本人もいないんじゃ、家の物を奪うしかない。借金取りたちは家の中を荒らしながら、そこにあったものを持ち出していった。そうして、空っぽになった家だけが残されてしまったのさ」
「それを……あの人が貰い受けたのですね」
「あんなに荒らされたオンボロの家と狭い土地じゃ、上司や他の借金取りのお眼鏡にもかなわなかったんだろうな。それで、仕方がないからあの家と土地をヤツが所有することにした、ってことさ」

【39】

 少しずつ、あの頃の状況が理解できてきました。

 きっと、初めて出会った日のおじさんは家の前で見張り役をしていたのでしょう。もし、お母さんが帰ってきたら、金を取り返すか、あるいはもっとひどい仕打ちを与える使命が与えられていたのでしょう。

 そんな彼がふと家の中を開けると、中から一人の女の子が現れました。きっと、これはあの女の娘なのだろう、すぐにそう気付いたでしょう。
 彼はわたしのことを哀れに思ったのでしょうか、真意はわかりませんが、とにかく、おじさんはわたしを育てる決意をします。
 家の外から出さなかったのは、他の借金取りや母を恨んでいた人たちに、わたしの姿を見せないようにするためでしょう。
 それ以上に、少しでも他の人と話すようなことがあれば、自分の母親が自分を見捨てたことに気づいてしまう、それすら危惧していたのかもしれません。

「……あの人は、旅の吟遊詩人なんかではなかったのですね」
「そんなタマかよ、むしろ正反対だ。この町から出たことなんてなかっただろうし、第一、顔が詩人なんてガラじゃなさすぎるだろうよ」

 アレはまさに借金取りの顔だったなぁ。
 おじさんの知り合いだったという男は、思い出しながら笑っていました。

【40】

「……ああ、でもあいつ、若い頃はずっと言ってたんだ。『いつかこの仕事で金が溜まったら、世界中を旅するんだ』とさ。町に異国の人が現れるたび、目を輝かせてその国の話を聞きに行ってた」
「けれど、そうはしなかったのですか?」
「ああ、お金が足りなかったのか、それとも、上司の支配から逃れられなかったのか……どうなのかは知らんが、歳をとるにつれ、あいつの顔はどんどん無愛想になっていったし、口数も減っていったな」
「諦めてしまった、ということでしょうか」
「そうかもしれねえな」 

 それでも、わたしにあんな話を毎日のように話していたということは。
 やっぱり、おじさんは旅人に『なりたかった』のでしょうか。

「その人がこの町を出ていった理由について、なにか知っていますか?」
「……変な噂が流れ始めた後だったな」
「変な噂、ですか?」
「ああ。『あの家から夜な夜な少女の声が聞こえる』っていう噂だ」
「…………っ!」
「最初はただそれだけの噂だったんだけどな。いつからか一人歩きを初めて、『前に住んでいた少女がまだ住んでいた』とか、『その少女の亡霊だ』とか、根も葉もないようなやつが沢山な」
「……そのことについて、その人はなんと言っていたのですか?」
「本人に聞いてもしらばっくれていたが、そのせいでこの町に住み辛くなったのかもしれねえな」

【41】

 わたしに関するどんなことを聞かれても、おじさんは沈黙を貫き通していたようです。
 そして、これ以上生活をするのは難しいと感じて、あの日この町を抜け出したのです。
 それも、一人ではなく、わたしを連れて。

 彼が不器用ながらに自分を守っていたのだと気付くと、不意に涙がこぼれてしまいました。

 ----おじさん、わたしを置いて行けば良かったのに。
 ----わたしを引き渡せば、噂は止んだかもしれないのに。
 ----わたしのことを売れば、少しくらいはお金の足しになったのに。

 ----それでも、わたしのことを守ってくれたんだね。

【42】

 次の日、わたしはかつての自分の家にさよならを告げます。

「この町に……この家に残ったって、僕たちは構わないよ」
 劇団の仲間たちはそう言ってくれましたが、わたしは首を横に振りました。
「いいんです。ここはわたしが一人で暮らすための場所ではありませんから」
 わたしはもう少し、この劇団で物語を紡ぎながら、旅を続けたいと言いました。
「みなさんとこの世界を旅していれば、いつかおじさんに会えるかもしれません。それに、わたしはおじさんの教えてくれた物語を、もっと遠くへ伝えたいんです」
「……そうか。それなら君には、もう少しだけ助けてもらおうかな」
「『助けてもらおう』だなんて、とんでもありません。あなた達がいなければ、ここに帰ってくることすらなかったのですから」

 ----それに、あなた達が文字を教えてくれなければ、おじさんの優しさに気づくことだって、なかったのですから。

【43】

 劇団の一員として旅を再会した日から、わたしは毎晩手紙を書き続けました。 
 手紙の内容は様々でした。
 とりとめもないこと、苦しかったこと、乗り越えた困難、大切な仲間との別れ、新しい景色の美しさ。
 おじさんと再会したら伝えたいな、と少しでも思ったことは、全部書き残しておこうとしていました。

 伝えたいのは、毎日のことだけじゃありません。
 いつか、彼が生きていて、この手紙が届くのであれば、伝えたいことがありました。

【44】

 まず一つは、彼の優しさに対する感謝です。「女に文字は必要ない」なんて理由で誤魔化してしまうような、ぶっきらぼうなおじさんでしたが、彼なりのやり方で、わたしを悪意のある言葉から守ってくれていました。お母さんがわたしを捨てたという事実や、それに対する町中の悪意の言葉、それを真っ正面から受けてしまうことで、わたしが壊れてしまわないよう、おじさんは文字を教えず、わたしを家に匿ってくれていました。そのことに、ありがとうを伝えたいです。

【45】

 そして同時に、もう一つだけ伝えたいことがありました。
 それは、おじさんと離れた後、文字を覚えて良かった、ということです。
 
 文字を知ったことで、わたしはたくさんの辛いことを知りました。
 (優しいと思っていたお母さんが、心の底からわたしを憎んで、疎ましく思っていたことを知りました。)
 お母さんが村とわたしを捨てて、異国の男を選んで逃げてしまったということを知りました。
 それに対する村の人たちの悪意が、怒りの矛先が、わたしに向かおうとしていたことも知りました。
 おじさんが詩人なんかじゃなくてただの借金とりであることにも、気づいてしまいました。

【46】

 けれど、それでもわたしは文字を知って良かったと思うんです。 

 なぜなら、そんな醜い事実を記した言葉なんて霞んでしまうほど、この世界にはたくさんの美しい言葉があったからです。

 いえ、きっと、それだけじゃありません。
 言葉が『声』ではなく『文字』だからこそ、意義をもつことだって、あると思うんです。

【47】

 ねえ、おじさん。
 わたしはあなたに会ったら伝えたいことが、たくさんあるんです。
 そして、伝えたいことは毎日のように増えていくんです。

 けれど、それら全てを覚えていることなんて、できっこありません。
 例えば今日、わたしが路地裏で見つけた綺麗な花のことだって、きっとそうです。
 明日になったら、その形は思い出せないでしょう。
 明後日になったら、色も思い出せなくなってしまうかもしれません。
 来年になれば、そんな花の存在さえ忘れてしまいます。
 そんなものなのだと思います。

 だから、こうして手紙を書いています。
 言葉は、本物の花の美しさには及ばないかもしれませんが、それでも、わたしが今日感じた美しさを、それを見た今日のわたしの気持ちを、文字はずっと残しておけます。
 いつかあなたに出逢った時。
 この手紙を渡すことができた時。
 今のわたしのこの気持ちが、少しでも伝わるなら、それはきっととても素敵なことです。

 『いま、この瞬間の自分』を『いつかのあなた』のために書き記し、残しておくことができるということ。
 それだけで、どんな醜さや悲しみも消し飛んでしまうほどに、文字を知って良かったと思えるのです。

【48】

 遠くで、汽笛の音が聞こえます。
 今いる町とは、今日でお別れです。

 この町には、かつてのわたしと同じように、言葉が通じない子供達もたくさんいました。
 けれど、そんな彼らも、わたしたちの劇を最後まで観てくれていました。
 台詞の意味はわからなくても、彼らは立って拍手までしてくれました。
 わたしはそれが、たまらなく嬉しかったんです。

 次に向かう町は、一体どんなところなのでしょうか?

 おじさんは、そこにいますか?
 もしいたら、わたしはきっと嬉しくて、泣き出してしまうでしょうね。
 けれど、もしいなかったら……
 わたしはまた、その町の記憶を手紙に書き記しておこうと思います。
 いつか、あなたに届けるために。

 

 詩人のおじさん、借金取りのおじさん。----わたしの大切な、おじさん。

 あなたに救われた女の子は今日も、いつか伝えたい『美しい言葉』や『美しい世界』を、手紙にしたためていますよ。

(終)















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?