日本のサブカルチャーにおけるAI倫理についての、独断と偏見まみれの仮説

内容は明らかに矛盾した書きなぐりであり、何の根拠もないものである。おそらく数日で消してしまうような取るに足りないものであろう。

それでもフィクションでの利用程度ならできるのではないかと思ったので、ここに書き留めておく。

まず、日本のサブカルコンテンツにおけるAI倫理について取り上げ、そこから日本人が望んでいるAIと人間の関係について考察していきたい。


人工知能、というより人工生命の倫理と言えるのかもしれないが、最も大きな影響を与えた人工生命についての作品の一つに「フランケンシュタイン」が挙げられる。(以下、人工生命の倫理的問題を人工知能の倫理的問題と同列に扱っている箇所が多いが、これらはフィクションにおいてしばしば同一視されるため、今回はこのような形をとった。重大な欠陥がある場合はご指摘ください。)日本にはこの作品の影響を受けた可能性が高いと考えられるアニメーションがある。「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」である。この作品におけるミュウツーは、フランケンシュタインにおける怪物と同様に「望まれてもいない生命を与えられ、人々に忌避される」という立ち位置を取っている。(フランケンシュタインを題材とした映画『フランケンシュタインの逆襲』が過去に公開されていたことから、これが題名のモチーフになったのではないかと推測する。)


また、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」も一つの人工生命に対する倫理の形と言えるだろう。作品における主人公は、人間に自らの臓器(厳密には臓器であると明言されてはいないが)を提供するために生まれ育てられた「提供者」である。そんな人工生命である主人公や仲間の生の在り方について考えるのが、この作品の読み方の一つである。ここで「わたしを離さないで」に関連する、驚くような話を一つ挙げる。これがイギリスで発行されたのは2005年の4月5日であるが、それより前にとある日本のゲームが似た題材を扱っているのだ。2004年にリリースされた作品「ぼくのたいせつなもの」におけるヒロインは、主人公へ臓器を移植するためだけに生かされていた存在であった。生命倫理・AI技術・命の起源にまで目を向けた傑作であるのだが、ノーベル文学賞作家とほとんど同じ題材を(しかもそれより前に)アダルトゲームが扱っているというのは奇妙な話である。

アニメーションやゲームで描かれるアンドロイドや人工生命体は、それらがカートゥーンである故に、しばしばどこか愛着の湧くデザインになっている。言い方を変えれば、サブカルチャーの中でAIを危険分子とみなす姿勢は多くない。(決して存在しない、というわけではないが)
日本のサブカルチャーにおいて、「AIが人類を滅ぼすか」などの関心よりも「人間に近づいたAIの尊厳はあるのか」などへの関心を取り扱った作品が多い。つまり、「AI側の権利を尊重する」という姿勢が強いように感じる。また、少し余談ではあるが、「ヒト型の人工生命に愛情をかけるべきか否か」という問題も非常に多いようだ。
海外の作品で「エクス・マキナ」や「2001年宇宙の旅」などはAIの人類への反逆を描いた物語であるが、残念ながらそれらの類似作は多くないように感じる。RASKより販売されたゲーム『Re;lieF』において、ある人工知能の少女が消える間際に(2001年宇宙の旅のHALと同様に)「デイジー・ベル」を歌うという描写はあるものの、人工知能の危険性について大々的に取り上げられてはいない。
これらは大学でのある講義のレポートのために取り上げた仮説であり、根拠に乏しいものであるが、可能ならば引き続き思索を進めていきたい。

上記の内容を基にして、講義の課題である「共存の形」について考える。
少なくとも一部のサブカルチャー好きな日本人は「人間そっくりなAIとの共存」を強く求めているように感じる。「ミュウツーの逆襲」において、ミュウツーはいつの日かコピーポケモンの生が認められる日を願って去った。その時主人公たちも同様の願いを持っていたことから、作品の結論としては共存を求めているように思える。
では、それらはどうすればいいのだろうか。
「ぼくのたいせつなもの」では、自分に臓器を提供するアンドロイドをひとりの人間同様にみなしつつも、結局は彼女の臓器を受け入れる。冷たい言い方をするなら、そうしなければ純粋な人間である主人公の方が死んでしまうのだから仕方がない。
また、アニメーション映画「イヴの時間」では汎用型アンドロイドが人間と仲良くしすぎると、人間側がアンドロイド依存症になり、結婚などに悪影響をもたらすと述べている。
これらの作品に共通して、私たちはロボットに認められる尊厳の限界と向き合い続けているように思える。
共存の在り方について、初めに私は二通りを考えた。ひとつは「人間同様にして扱う」こと、もう一つは「ペット同様にして扱う」ことである。しかし、上述の通り、私たちは作品内においてロボットに与えられる尊厳の限界を模索している。それは裏返すと、人間同様にして扱うのは難しいということの他ならぬ証明であるように思える。よって、ここからは後者について取り上げる。
実際に、私たちは電子の存在をペットとして扱うような文化を持っている。「たまごっち」がその最たる例であろう。現在はまだボディを持っておらず、ゲームの中のキャラクターに過ぎなかったが、そんなたまごっちでさえも本気でペットのように扱う人間は少なくなかった。これが将来的に身体や知的な対話能力を持った時、どれほどの人間が愛情を抱くのだろうか。もし、フィクションのようにヒト型のAIと共に暮らしたいのならばそれらと人間の明確な線引きを考え、人工知能・人工生命との向き合い方を決めなければならない日が来るのかもしれない。

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