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咖喱論

 半日のうちに気分は変わった。夏痩せに良しといふ物ぞ鰻漁り食せ(むなぎとりめせ)。はたやはた鰻を漁ると川に流るな。土用の丑の日は過ぎてしまったが、暑い夏は相変わらず続いていく。鰻なんて高すぎて買えないや。瓜食めば(はめば)子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ(おもわゆ)いづくより来りしものそ目交(まかない)にもとなかりて安眠(やすい)しなさぬ。瓜を食むことも栗を食むこともほぼないが、季節ごとに美味しいものがあることは承知している。しかし一方で、季節関係なく食いたい物を食うことも可能な現代である。何を食べても何を見てもという生活も3月になれば終わるのであろうし、やがて新たな出会いも遠い日のことではない。とはいえ、今は続くこの毎日、たまには気分を変えて好きなもの、すなわちカレーでも食べないと。カレーで気分が変るのかと問われるかもしれぬが、人間は元来そういうものであり、変ったのは身近に手に取ることのできる食材の上皮だけのことだ。

 カレーと言えば、キーマカレーである。インド料理のキーマカレーは、ひき肉のカレーといった意味であり、宗教上の理由から牛や豚のひき肉を使うことはほとんどない由。これからして、日本におけるキーマカレーとは違った様相であるのだが、私は日本のキーマカレーを愛す。しかし、告白するに私がキーマカレーを食するようになったのは、ここ十年程度であり、私にとってのカレーは、長らくバーモ◯トな家カレーであったことは否めない。肉もひき肉ではなくこま切れであった。

 ひき肉、その偉大なる破壊力。ひき肉の前には、こま切れもしゃぶしゃぶも、ブロックでさえも平身低頭するであろう。ひき肉はいつ如何なる時においても裏切ることはないのである。私は日本に生き、牛や豚のひき肉で作られたキーマカレーに魅了され続けている。日本文化とは如何。取り込み、元来のものに変形を加えながら、独自の文化を形成し続ける、巨大なる生物の如き躍動。然り、文化とは生物の躍動である。生きよ食べよ。私はこれからも変転する日本流の食を愛さずにはいられないだろう。インドのキーマカレーでなしに、現代日本のキーマカレーをあみだすためには、人はあちこちの店でキーマカレーを食べることが必要なのだ。食べることによって、新しいカレーに出会い、自分自身の好むカレーを発見せねばならない。食べログやぐるなびによる★3つ半の評価などは上皮だけの愚にもつかない物である。


注)何を食べても何を見てもという生活も3月になれば終わるのであろうし…3月で年度が終わる日本流の区切りを指している

※『SECOND CURRY LIFE』vol.1(2016.9)に寄稿。




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