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京介と春乃 #前書き

*ぼくが日々をやり過ごすなかで感じたこと、考えたことを、一組の男女の生活になぞらえて書いてみようと思います。不定期です。

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鏡の前で髪を結わえていると、春乃が後ろで小さく笑うのが聞こえた。

「京ちゃんは、髪を結ぶと男っぽく見えるなあ」

振り返ってみると、春乃は洗面所の入り口で引き戸の黒い枠に指をかけ、片足立ちになってこちらに身を乗り出していた。窓からわずかに射しこむ月明かりが、顔の輪郭をそっと包む髪にきらきらとはねていた。すぐそばの蛍光灯の無神経な光のせいもあり、彼女の顔はぼんやり陰っていてよく見えなかったが、ぼくは彼女に向かって微笑んでみせた。そうして鏡に向き直り、頭頂部のはねた髪を手のひらでぴったりとなでつけた。

「かっこいいよ」

ありがと、と返した声があまりにもか細かったような気がして、もう一度言うべきかどうか考えていると、玄関から春乃が「先に出てるよ」と言うのが聞こえ、返事をする間もなくドアがバタンと閉まった。ぼくはそれを合図にするみたいに、ひとつ深い息をついた。そして洗面所を出ようとしたとき、何とはなしにリビングのほうに目をやった。傍によせられたカーテンも、クローゼットの扉にかかる春乃のコートも、本棚の上の小さな猫の人形も、ひんやりと冷えた空気のなかで、そこにあるものはすべて静止していた。あるいは、そこにあるものだけは動いていなかった。ぼくは立ち止まったまま、見慣れないものを見ているような気持ちになってしばらくその光景を見つめていたが、つんと刺すような寂しさにはっとして、足早に家を後にした。

ふくれたビニール袋をそれぞれ両手に下げながら、春乃とぼくは人気のない道路を歩いた。そう遠くない何処かで、人をはちきれるほど詰め込んだ電車が走っているのが聞こえる。ガタンガタン、ガタンガタンと車輪の立てるリズムはまるで、乗客の鼓動をまとめて代弁しているようだった。ぼくはそれを春乃に伝えた。

「あ、ほんとだ」と春乃は呟いた。

「なんか安心した。ほんとは収まりきらないくらい人がいるはずなのに、夜になったらみんなささっといなくなっちゃうんだもん。みんなどこに行ってるんだろうって、ずっと思ってた」

ぼくらは公園に入った。ふたりともすぐに家に帰りたくはなかった。春乃は両手に持ったビニール袋をベンチにのせると、ふう、と嬉しそうだった。ビニール袋にはえのきや、レタスや、白菜など野菜が詰まっていた。隣り合って腰を下ろすと、春乃はビニールを握っていた手を閉じたり開いたりして、何かを確かめているみたいだった。ぼくの手はすっかり冷えていた。なめらかな空にぽつんと浮かぶ月が、街灯よりもずっとくっきりと光っているのが、ぼくには理解できなかった。

「この前、セックスって英語でなんていうのか気になって調べたの」

「中学生の男の子みたいなことするんだね」とぼくが笑うと、春乃はちがうよ、と言って不満そうな目でこちらを見た。

「ふつうだったら、セックスは英語でもセックスだろうって考えるでしょ。わたしは、もしかしたら違うのかもしれないって思った。それはつまり当たり前を疑ったということで、真実を突き詰めようとする姿勢を持ったということなんだよ。中学生の男の子は、さしずめ爆発しかけているダイナマイトみたいな性欲のはけ口がよくわかっていないから、とりあえず確実に想像をかきたてるものが含まれている辞書に向かうわけでしょ。それとはまったく質が違う」

「ご、ごめんなさい」

「ていうか、京ちゃんは中学生のときにそういうことした?」

「あんまり覚えていないけど......たぶんしたんじゃないかな」

「ふうん」と春乃は言った。

「とにかく、わたしはセックスが英語で何と呼ばれているのか調べた。そうしたらやっぱりセックスはセックスじゃなかった。というか、確かにセックスとも言うんだけどそれ以外にも呼び方があったの。何ていうと思う?」

「さあ......」とぼくは首をひねった。「何ていうの?」

「セクシュアルインターコース」と春乃は言った。「どうやら性交の英語訳らしいんだけどね。だから正確にはセックスの訳というわけではないのだけど、すぐそこに存在していたのにもかかわらず知らなかったものに出会うことができたから、なんかちょっと充たされた気分になった」

そう言うと、春乃は頬をかいた。彼女の指先は乾燥していて、ところどころささくれが目立った。ぼくはそれを愛おしいと思った。あるいは、もしかすると、ただ切なくなっただけかもしれなかった。斜め上を見上げる彼女のうすい唇から、こぼれるように白い息が流れて消えていった。いつの間に息が白くなるほど寒くなったのだろう、とぼくは思った。同じベンチに座って春乃と話をしていたとき、視界の縁を彩っていた樹々は、もうすっかり葉を落として裸になっていた。その傍らでじっと佇む街灯だけはいつ見ても変わらないのだった。ふいに春乃が呟いた。

「セクシュアルインターコースって、大学の授業にありそうだよね。第二外国語中級コース、みたいな」

「だれが教鞭とればいいのそれ」

「ブワッ」

くしゃみをした春乃がずるずると鼻をすすった。ぼくは笑いながら彼女の背中をさすった。

「そろそろ帰ろっか」ぼくが尋ねると、彼女はしずかに頷いた。

ぼくらは公園を出て、アパートのほうへ再び歩き出した。どこかでしきりに犬が吠えていた。青信号の光がやけに美しかった。

「だれが教鞭をとるべきかって話だけど、そもそもそれを議論するのがセクシュアルインターコースの主題っていうのは考えられない?」

「そんなに真面目に受けとられるとは思ってなかった」

(続)

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