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自分の名前で「勝負」をしたいわけじゃない

こんなことを言ったら、「まだ何の結果も出していないのに開き直らないほうがいいよ」とあきれられてしまうかもしれないけれど

いつからか“自分の名前で勝負する”という言葉が、まるでぶかぶかのワンピースを着ているかのように、心にフィットしなくなった。


わたしはこの4年近く、亀の歩みではあるけれどライターとして仕事をしている。

そしていまは、ずっと興味があった“場の編集”に携わるために、イベントスペースの企画運営などもさせてもらっている。


心のままに生きているので、なにか特定の分野を極めているわけでも、じゅうぶんな実績があるわけでもなく
「このような者です」というきちっとした自己紹介ができずにモヤモヤすることは、しょっちゅうある。


個人的にはいまの生活が気に入っているけれど、ぜんぜんちがう文脈で生きている誰かに共有しようとすると、結構むずかしい。


なので、仕事について尋ねられたときは、なるべく相手に伝わるよう精一杯の気持ちをこめて経緯を話すようにしている。

マイクを握ってスピーチをはじめるようですこし気が引けるが、具体的なエピソードを挙げることでお互いの目線を合わせやすくなるのだ。

そこから人対人というか、魂対魂の、本質的なコミュニケーションがはじまっていくような気がする。

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時代の流れなのか、最近では、

「自分の名前で勝負できるっていいですよね」
「手に職がある人や、個性がある人が羨ましいです」

という言葉をかけてもらえる機会が増えるようになった。


もちろん社交辞令というか、コミュニケーションを取るうえでの相手に対する思いやりの意味も含まれているのかもしれないけれど

それと同時に、わたしのなかから“自分の名前で勝負する”という意識がすっかり抜け落ちていることにも気づいた。


フリーランスの仕事をはじめたばかりの頃は、「はやく一人前になって勝負できるようになりたい」という強い思いがあった。

それくらい突き抜けていないと、この世界で食べていくことも生き残ることもできないだろうと考えていたし

文章を読んでくれた人の心に残る存在になりたい、表現の世界で仕事をしていらっしゃる方々とお近づきになりたいという、人間らしい願望もあった。


だけど、そういうエゴに振り回されているかぎりは
いつまで経っても「勝ち負け」や「上下」や「優劣」がある世界から抜け出せず、苦しみもがき続けるだろうこということに、じわじわと気づきはじめたのかもしれない。


自己肯定感が低いのにプライドが高い、というか、生きることに対する恐怖心が強かったわたしは、学生のころからいつも周りと自分を比較して落ち込んでいた。

人と比べてあれもできない、これも足りていないと、つねに自分のなかの監視役に見張られているような、ジャッジされているような息苦しさがあった。


それは会社組織という枠組みから離れてみても、すこしずつ憧れの仕事ができるようになってきても、あまり変わらなかった。

周りの人からすると、しがらみがなく自由に見えるかもしれないが、出発点が“恐れ”なのでいつも誰かと椅子取りゲームをしているような焦燥感があって。
頭のなかも、心のなかも、人生の正解や最短ルートを探すことで忙しかった。

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そういう意味では、「勝負」という土俵から徐々に抜け出せていることは、ある種の成長なのかもしれない。

まだ実感はそれほど強くはないけれど、いのちという大きな循環のなかに、ひとりの人間として組み込まれているような感覚がある。

むかし、大学の先生に「世界を変えようだなんてたいそうなことを考えずに、一隅を照らす人になりなさい」と言われたことがあったけれど、ここへきてようやくその言葉の意味を理解できるようになった。


こういう話は、結果を出している人が言うからこそ説得力があるのかもしれないけれど

それでも、行動のエネルギー源を「競争」から「協奏・共創」に切り替えられたことがうれしくて。この先の未来にもつながっていくような気がしている。


最後に、自分の名前で「勝負」をしたいわけじゃないなら、どうなりたいのだろうと考えてみた。

すると、ごく自然に「自分の名前で誰かの居場所を作れたら最高だなあ」という想いがわきあがってきて。


たとえば、「りゅうちぇるみたいな生き方がしたい」と言えば、それはモデル、タレント、歌手などの表現の仕事を指す場合もあるだろうけど

太陽のような明るさで、「どんな自分にもオッケーを出そうよ! お互いの違いをたのしもうよ!」と、人の背中を押す在り方そのものを指しているんじゃないかと思う(わたしは彼の愛にあふれる人柄がだいすきだ)。


そして、彼に対する共感やリスペクトがきっかけで出会った人々は、きっと多くを語らなくても分かり合えるのだろうし、ちょっとした“同志”としての絆を感じることだってできるかもしれない。


そんな風に、自分の名前が誰かの居場所を作る合言葉になったとしたら、それほどしあわせなことってないよなあ。


大それた願いだけど、いつかそういう生き方ができるようになりたいという気持ちを込めて、今日もこのnoteを書いています。

たいへん励みになります!心のなかでスキップをしつつ、チョコとアイスを美味しくいただきます!