私が、私らしくいること

小学生のとき『恋と愛の違い』について前の席から一人ずつ答えることなったの覚えてる。

深さの違いだ、とか
無償かどうかだ、とか
恋が先でそのうち愛になる、とか
なんやかんや言って自分の順番が回ってきて、自分がなんて言ったかは覚えてもない。

先生だけが少し知ってるような顔してにやにやしてたのが印象的だった。

生意気な子も控えめな子も、そこにいた誰も恋や愛についてよく語れなくて、あの瞬間だけは全員が平等だった。


恋とか愛とか、なんだろう。

恋は楽しくて未熟って感じがしてたけど、それだけで片付けられないし
愛はたまに心地良いけど、タイミングやバランスによっては不快にもなるだろう。

人それぞれに形があって、正解はない。
だから小学生にも、大人にも、誰にとっても良い問いだと思う。

私は愛とは何かを改めて考えてた。
答えがないからこそ。

心地よさや、楽しさや、幸せや、それを求めてるかどうかとか、感覚の個人差にヒントがあると思う。

同じ悲しみや、虚しさや、渇きを持っていても勝手に共感するのは違う。

そのことに関しての感度の差があって、生きる姿勢も感じる量もそこから得るものも全部違うから。


誰かの感性を受け入れて、向き合うことが愛だと思っていた。

自分にとって不都合なことや、調子の悪い日にも、同じように向き合うって大変なことだ。

たとえ自分だけがそれをクリアしても成立しない。


そう思うのに、そういうの全部無くても
愛の形はどんな形でもあり得るとも、思う。

たとえば、何一つ向き合えずにもっと表面的な関係で、それでも気軽に楽しくあれれば幸せ。
それはそういう愛、その人たちの形だ。


それでも私は、人の現実を知って向き合うことは深い愛だと思っていて

向き合う気がなく、人生に深入りして面倒なことになる気が一切ない中で
何を話しても互いを詳らかにしても、虚しいと思う。


人間関係の都合の良さの中で、暗黙のルールを敷きながら関わるよりも「自分はそうじゃない」って白状するほうが愛だと思う。
愛は無理したり取り繕ったりすると遠ざかる。

こういう事に気づいてから、前とは同じじゃいられなくなった。

ただでさえどうしたらいいのかわからなかったのに、ますます、分からなくなった。

少し前の私とは全く違う人間みたいだし、でも不思議なことに、もっと昔の私に戻ったような感じもある。
それこそ、小学生の頃の私のような。
あの頃とは何もかも違うのに、あの頃と同じように、私は私らしくいることしかできない。
それが答えになった。
愛とは、私が私らしくいること。

子供は何も知らないのに、全ての答えの原石を持っている。
大人になったらそれを言語化できるのに、少し遠ざかるね。
生きるほど遠ざかる大切なもの。私はそう感じる。

実は今日、30歳になった。※重要
最近、趣味でファンタジーを書くことが多くて
noteには原作部門の形で投稿したけど
私は遠ざかるものを追いかけるように、物語を書くのかもしれない。
子供の頃からの忘れたくない気持ちや、言語化できないもの。
これだけ書いておいて、言語化できないものを何より信じてる。

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