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自分の言葉だけで、自分のことだけを語ることの得難さについて - ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』ブックレビュー

 手にしてから初めて、こういうものがずっと欲しかったと気づくものがある。それまではそれなしで十分やってきたはずなのに、ひとたび手にしてしまうと、もうそれなしでは暮らしていけない。それは案外さりげないものだったりして、どうして今までなかったのかと不思議に思う。

 ルシア・ベルリンの小説を初めて読んだとき、正確に言えば最初の一文を読んだとき、自分はずっとこういうものが読みたかったのだと思った。作者は2004年にすでに亡くなっている。同時代の作家に大きな影響をあたえながらも、生前に十分な評価を得ていたわけではない。それがここへきて、新たな読者を一気に獲得しているという。読めば人気が出るのは当たり前だと納得する。これまでどうやって埋もれていたのかと不思議に思う。

 ルシア・ベルリンのはじめての邦訳作品集に収められている表題作、「掃除婦のための手引き書」は、バスに乗ってあちこちの家に行き、その家の掃除をしながら、死ぬための睡眠薬を盗む女を語り手とする短編小説だ。そこでは、移動する道中の出来事も、他人の家での日常的な些事も、死んだ夫のことも、掃除婦へのアドバイスも、ほとんど同時と言っていいほど間髪なく続けて語られる。

 まず感じるのは目の良さだ。語り手は、最新のオートフォーカス機能を搭載したカメラのように、対象をすばやく高解像度に捉える。ここまで効きのいいオートフォーカスをテキストで体験することはそうあることではない。視点の移動が早く、描写に無駄がない。動きが早いだけではなく、その目はしっかりと心が感じ切るまでそこに留まる。動きが早いだけならテクニックとして真似ることができるかもしれない。しかし、そこに留まるという選択は、テクニックというより生きる姿勢だ。

 面倒なことが起こりそうなときも、語り手は目をそらさずにしっかり見る。それも傍観者や旅人の視点ではない。しっかり感じて、しっかり反応し、くだらないことでも目の前の現実にしっかり参加する。探し物を見つけたとき、勤め先の家の主人が「見つけた!」と叫ぶと、すかさず「あたしが見つけたんです!」と叫ぶ。主張し、ときに反抗し、目の前の生きている人間と一緒に声をたてて笑う。感受性は踏みっぱなしのアクセルのように入りっぱなしで、読んでいるだけでもひりついてくる。しかし、そのひりつきは、不思議なほど軽やかにリズミカルに提示される。そこが癖になる。

 リズムを作り出している要因はいくつかあるが、まずはその声の緩急と振れ幅だろう。詩的でイマジネーションに富んだ言葉が続いたあと、驚くほど素朴な言葉が置かれる。行き届いているのに、神経質さがない。作り込んだ密閉感がなく、それが作品の風通しをよくして軽みになっている。いかにも小説風の言葉が似合いそうなところで、そちらに流れず、まるで言葉を多く知らない子どもがぽつんと呟くような簡単な言葉で閉じる。その振り幅によって、どこまでもわかりやすく書かれているのに、どこかつかみきれないところがあって、次の文章にはっと驚かされる。

 また、この作品では構成もリズムを生み出す上で大きな役割を果たしている。ルシア・ベルリンの作品は、ほぼすべてが実体験に材をとっていると言われる。確かに、いかにもほんとうに起こったことがそのまま書かれているように読めてしまう。しかし、ただそのまま書いたのでは、こういうふうにはならない。視覚的にも特徴的なゴチック表示のバスの行き先と、括弧書きで記される掃除婦への注意事項は、それらの反復によってリズムを刻んでいる。どんな事情をかかえていようと、バスはやってきて、それはときには早すぎたり、道を間違えたりする。もうどこにも行きたくないときも、別のところに行きたいときも、目の前にはいつものバスがやってくる。笑い話にしないとやってられないような、どうしようもないことを、括弧書きのなかでユーモラスにつぶやく。今ならツイッターなどのSNSで似たようなことをしている人もいるかもしれない。まさに現実を生きているリズムだ。それをバスの行き先と括弧書きだけで表現してしまっている。

 現在と過去を語る声の配合具合にも妙がある。語りはほとんど現在形で進む。そして同じ声が死んだ夫のことを過去形で等価に語る。わざわざ回想シーンのようなものは作らない。その過去の存在が、後半へいくにしたがってじりじりと水位をあげていく。そして最後、過去が未来を志向する意味を含んだ現在へ引き渡されたときのカタルシスは大きい。どこを緩めて、どこを締め上げるかを把握している冷静な筆だ。

 何をどんなふうに話すか。あるいは、何をどんなふうに話さないか。語りというのは、ただそれだけの組み合わせでできている。ルシア・ベルリンは自分の言葉で自分が語りうることだけを語る。こう言ってしまうといかにも簡単そうに聞こえるが、いざ探してみるとそうそう見つかるものではない。誰もが発信できる時代になり、自伝風の話ならいくらでも見つかる。しかし、自分を語っているようで、そうではないものも多い。借り物の言葉に依存しすぎていたり、自分のことを語るようでいて、他者と比較した自分のポジションを語っているだけの場合もある。それらは、それぞれが違う話であるはずなのに、なぜか似たり寄ったりに聞こえる。

 自分が語るべきことだけを、自分の目で見て感じ、身体に落とし込んだところから獲得した言葉だけで誠実に語ること。自分の声が持つリズムと緩急、トーン、ボリュームで自律的に自由に語ること。それらがすべて揃うことの得難さ。この声がひとたび語りはじめたら、じっと聞き入ってしまう。そして安全な場所で耳をすませていただけだったのに、それを読んでしまったものの身体には、語り手と一緒にその切り取られた日常の一部を生きてしまったような感覚が残る。小説家のリディア・デイビスは「ルシア・ベルリンの小説は帯電している」と言う。確かに、これは感電してしまったということなのだろう。ルシア・ベルリンの小説を読むと、感受性をしっかり踏み込んで生きてみたくなる。そうやっても潰れない、自分自身のしたたかな生命力を信じてみたくなる。

 これまで埋もれていた理由はわからない。芸術の世界ではそういうことはしばしば起こるらしいから、取り立てて珍しがることではないのかもしれない。しかし、いまこのタイミングだったということに何らかの意味があるとしたら、それは私たちの時代の方が、ルシア・ベルリンの小説と共鳴するようなものに変わっていっているということなのかもしれない。

 作品集の巻末には、前述のリディア・デイビスと、翻訳家の岸本佐知子の解説が掲載されている。どちらも非常に的確で、そういうことだったのかと多くの気づきを与えてくれる。でも結局二人は、最後にもうほとんど笑いながら投げ出しているような雰囲気でこう語る。「いくらでも引用し続けられる」とリディア・デイビスは言い、「とにかく読んでください」と岸本佐知子は言う。この二人がそう言うのなら、もうほんとうにそれしかないのだろう。自分もいろいろと書いてはみたが、結局ルシア・ベルリンの言葉をそのまま体験することでしか、それを表すことはできない。付け加えられることがあるとすれば、あとはもう先に読んでしまった者から、これから読む人への注意事項くらいだ。

(これから読む人へ:特にこれまでその鋭い感受性を極力働かせないようにして、余計なことをなるべく言わないようにしてきた人は要注意。この小説は身体に残る。一度その感覚を知ってしまうと、もう誤魔化すのは難しいかもしれない。踏みっぱなしの感受性と、ユーモアという生命力をパラレルに走らせて、なんとかやっていくしかない。大丈夫とはとても言えない。でもこれだけは言える。感電してしまったとすれば、それはあなた一人ではない。時代は変わるし、小説が終わっても人生は続く。)

最近、社会人になってからコツコツ作ってきた感受性調整装置の効きが悪いので、もうディスコンでいいかなと思ってます。もう全開で。

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