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今がどんなに幸福でも不幸でも、結局みんないつか死ぬ

お久しぶりです。澄田美稲です。

今回お話したいなと思っているのは「死」という概念についてです。

表題にもあるとおり、当たり前のことではありますがどんな生き物でも死は訪れるものであり、人間であっても今どんなに幸せな人でも不幸せな人でも形は違えど誰しも平等にいつか死にます。

いつか死ぬのに、どうして生きているんだ。生きる意味なんてないじゃないかという台詞を皆さん一度はどこかで聞いたことがあると思いますし、考えたこともあるかもしれません。私は以前、生きる意味について自分なりの解釈をTwitterに残しています。

ここに記した私の考え方はいまだに変わっていません。

人は死ぬために生きるのだと思います。死ぬときに、今までの人生を振り返って後悔のないように。自分が生きた意味を見つけられるように。自分が死ぬことに、何かしらの意味を持たせられるように。そのために人は生きているのだと。そう思います。

君が生きている今日は、誰かが生きたかった明日なんだよ。

とか、そんなことを言うつもりはさらさらありません。生きているのは自分なのだから。こんなこと言うべきではないのは重々承知ですが、自分の死に納得ができるのならば死んでもいいのではないかと、そう思わざるを得ません。こんなこと言うと自殺を助長していると言われかねませんが、ここは私の居心地の良いように言葉を紡ぐ場です。ご理解を。

生きることが重圧になって。苦しみ以外の何者でもないのなら。その上生きろと言う権利が当事者以外の誰にあるのでしょうか。

死ぬと言う選択肢を許容して受け入れること。それが相手のことをあくまでも自分とは違う1人の人間として尊重する最高にして最後の、唯一の方法なのではないでしょうか。

ただそうは言っても大切な人には生きていてほしいし、死んでほしくないと思うのは当たり前のことで。

ただその願いって本当にわがままで、自分勝手なものだと思うのです。

本当に辛いのは相手で、生きていて苦しい思いをしているのも相手なわけです。自分にできることがあったらするからと言ったところで相手の苦しみを肩代わりできるわけでもない。表面的には苦しみを分かち合うこともできますが、真の意味で理解してあげることは到底できない。そんなことができると信じている人は相当自信過剰で傲慢な人だなと私は思います。

でも難しいのは「生きてほしい」と言ってもらえるだけで前を向ける人もいると言うことです。これがなかなかどうして難しい。

「死にたい」と漏らしてしまう人の中には本気で追い詰められて、自分ではどうしようもなくて、かといって人に話したところで事態が変わるわけでもなくて、究極的に生きる意味を見失ってしまっている人だっているわけです。しかし誰からも必要とされてる気がなんとなくしなくて、なんとなく苦しい思いをしている人もいます。それで極端な話死にたいと漏らしてしまう。これだって立派な苦しみには変わりありませんが、前者とは明らかに種類の違うものです。

この種類の違いを見分けるのは己のその相手との付き合いの質に左右されるとしか言いようがありません。

ただ言えるのは、「生きてほしい」と我儘を言うのであれば、本気でその人の人生に関わっていく覚悟を持って言うべきだと思うのです。それだと救えた命も救えなくなると言う声が聞こえてきそうですが、私の価値観では「生きてほしい」という言葉にはそれほどの重みと責任があると思います。


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