見出し画像

人は取り繕うのに必死だけど、それを辞めたら生きやすくなってきた

SNSに流れてくる投稿や、そこに書かれているコメントなどを見ていてよく思う。

人は自分を取り繕うのに必死だな、と。

自分を大きく見せようと取り繕うし、違う考え方に触れた時に自分を守るために取り繕うし、他者に負けないために取り繕うし。

本当に思っていることを言っているのは全然いいが、思ってもいないことも言っているものも多く、それは見ている側には一発でバレる。


また、ちょっと結果が出てないだけの野球選手に「終わり」などとコメントしたり、特になんでもないことなのに「〇〇(人名)がヤバい」みたいな投稿をしたりするのをたまに見かける。

そういうことが楽しいなら、その人たちだけでやっていればいいと思うし、肯定も否定もしないが、これも「取り繕う」の一種な気がし始めている。

知ったかぶりをしてコメントすることが自分自身の考えを守ることになり、意見を戦わせることで自分の存在感を確認できる、といった感じだろうか。

「取り繕う」のベクトルが他人に向いているわかりやすい例だろう。


他人のことを書いたが、僕だってこれまで多くを取り繕ってきた人だ。

仕事が全然順調じゃないのに「順調です」と言ってみたり、全然お金がないのに旅している自分に酔って旅をしてみたり。

やりたいことや自信があることばかり叫んで、それ以外の自分から目を背けようとしていた。

独立したての頃に、何もできないのにできる自分を見せなきゃいけないから「あれもできます、これもできます」と言ってしまうのは、事業主の人には共感してもらえるかもしれない。

そんなことを言っている時の自分は、大体無理している。


まだ完全に辞められたわけではないが、ここ最近は「取り繕う」のを辞められるようになってきた。

結果、生きやすくなってきたように思う。

できないことはできないと言うし、嫌なことは嫌と言うし、苦しい時は苦しいと言うし、わからないことはわからないと言う。

書けば易しだが、これが意外と難しい。

人にはプライドというものを持っており、守るべきプライドと捨ててもいいプライドの両方があるが、後者の見極めには時間がかかる。

来月33歳になるのだが、33年間の人生で少しずつわかってきたような気がする。


昨日も友人と話していて、最近の調子を聞かれた時に「売上が下がってきててキツいっすね、ハハッ」と答えると「正直でいいね」と返してくれた。

その方も事業主なので、その気持ちがわかるのが前提にあったと思うが、この回答は実に気持ちがいい。

取り繕って「まあまあですかね」などと答えていても、それで終わっていただろうし、会話が続いたとしても取り繕い続ける必要があったように思う。

取り繕えば取り繕い続ける必要があるし、誰かと戦う必要も生じてくるが、取り繕うのをやめれば「共有」が生まれ「仲間」になってくれる。


過去に書いたnoteだが、この時の反応が想像以上に良かった。

僕は話すことに生まれつきハンデがあるのだが、それを逆手にとって「自分のAIアバターを作って、アバターにピッチをさせる」という方法でピッチ大会に出場したのだが、その背景にある考え方を書いたことで、いろんな人から嬉しい声をもらった。

これは僕にとっても大きな出来事で、できることを大きな声で叫ぶより、できないことを認めて共有することの方が大事なんだ、と気づいたのだ。

取り繕うのをやめることを選んだ瞬間に、自分の新しい扉が開いた気がするし、何より生きやすくなってきた。

だって、取り繕う必要がないんだもん。


このnoteを通じて、「みんな正直に生きようよ」などと言うつもりはない。

人それぞれ考え方は違うし、それを強要したくもない。

ただ、「取り繕うのをやめたら、僕は生きやすくなってきたよ」というのを共有したかった。

来月で33歳になるが、34年目以降の人生もなるべく取り繕わずに正直に生きていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?