自分が何者かわかる日なんて一生来ない。だから
「何者かに目指しなさい」
「何者かになる必要なんてない」
インターネットを見たり書店に行ったりすると、この両極端な言葉が目に入ってきます。
おそらく、それは発信者自身の経験に基づいて言っているだけなので、正解はないのでしょう。
また、インターネットや本を見ていると、登場するのは決まって「何者か」です。
One of themにスポットライトが当たることは珍しく、「何者か」になれた人が出てきますよね。
「何者かになる必要なんてない」と話す人も立派な「何者か」です。
It's OXYMORON.
そんな言葉が耳に入ってくるおかげで、自分自身も「何者か」を目指さなきゃいけない、と思ってしまったりします。
目指さなくても、自分自身が「何者か」を言語化する必要があると思ったり。
結構しんどくないですか?
昨年あたりから僕は「肩書不要論」を唱えているのですが、その理由はシンプルで、肩書を考えること自体がしんどいから。
他人と差別化する必要なんてないのに、競争の中で生き残るためだけに肩書をつける。
そのために「何者か」を定義するなんて、全く気持ちが乗りません。
でも、「何者か」を目指すことは悪いことではないし、それがモチベーションになる人であれば全然いいと思います。
「ミュージシャンになりたい」とかかっこいいじゃないですか。
話を戻します。
そもそも、「自分が何者かわかっている」人なんているのでしょうか。
自分の中の定義と、周りからの評価が完全一致している人なんているのでしょうか。
僕は「No」だと考えています。
人には多面性があって当たり前なのに、自分にはわからない一面があって当たり前なのに、その全てを完全に理解している人なんていないはず。
だから僕が、自分が何者かわかる日なんて一生来ないと考えるようにしました。
そう割り切っちゃった方が、多分気持ちが楽になるから。
今回のnoteはこれで終わりではなくて、もう少し踏み込んでいきます。
自分のことは自分ではわからないけど、自分のことを自分以上に理解してくれている人はいます。
自分では気づけない自分の魅力に、近くにいる人はきっと気付いています。
もちろん、自分のことを全て理解してもらうのは無理な話。
だって、自分でもわからないのだから。
でも、相手が受け入れてくれる自分は確実に存在するし、それさえ伝わっていれば十分ではないでしょうか。
自分が何者かわかる日なんて一生来ない。
だから、自分以上に自分をわかってくれる人を大切にすべき。
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