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「もはや研究者ではない」人たち(1)

最近、型がない「事業を作る」、逆に型がありすぎる「決まった管理をする」ような仕事には、大卒である必要がないと感じている。
(社会を渡るのに肩書きが要る、教養や人脈があると有利といった論点は別。これらの仕事の「純粋な遂行」に高度な学問は不要という意味)

大卒は本来、習得に時間がかかる学問を携えて社会に還元されていく。大学で研究を続けることもあれば企業内の専門職を勤めたりもする。

最近話題の国語教育の変化だが、契約書を読むスキルはどこに当てはめるか?というと、現状は「大卒クラスの高度な学問」として扱われている。(原則、法学部の人は本来の文章構造と特定の文面の意図を理解できる)

しかしこの状況に対し、一般市民が生きていくのにその手の読解力の必要性が増してるというのが政策の背景だ。これが事実なら、学問から基礎教育にシフトさせる、という流れは妥当といえる。使いやすい労働者を育てるだけといった批判もあるが、そのためだけじゃなく、「お釣りの計算ができる」のノリで「契約書が読める」ことが全国民必須という前提に変わってきているのだ。

それで小説等の時間を削る妥当性は...
実用文章より小説などの方が自習できるから、ギリ妥当と言えますかね...
文芸作品はテストで問題出しても正解なのか疑問がついて回りますし、個人的にも、国語で文章読まされて教わることって、読解力より倫理観(しかも押し付け)だった記憶ありますし...
文芸作品読んで意味が分からない人は教わってもわからないし、わかる人は教わる意味がわからない、て印象...

ただ私、基本的に小中高は授業自体がペースメーカー以外の意味を持ってない(教科書以上の情報が入ってこないので読めばいいやんと思う)タイプだったので、おそらく、今の国語教育の意義をかなり低く見積もっております。こういう奴が行政や政治にいると授業内容変えまくって格差広げまくると思いますので、そんな私が、まあなんとかなるでしょ?と思うこの政策、格差の増大をもたらさないとは言い切れない。


さてここまで前段である(長い)

ところで、理系の大学生時代を過ごした人たちに、研究者だった、研究者をめざしていた、しかし今はもはや研究者ではない。

こう思っている20代以上、たくさんいると思う。

我々理系は高度な学問として、かなり絞られた分野を専攻する。

絞りすぎて糸みたいになった多数の細い選択肢の中でとても好みの糸を選ぶ。その好みとは千差万別だ。

医療で人の命を救いたい

動く機械が好き

色素が好き

有機金属錯体が好き

技術の実用化に興味が強い

特定の高分子が万能すぎて世界変わる気がする

宇宙エレベーター作りたい

環境エネルギー問題を解決したい


文系の人が誤解しているところだが、理系とはみんな「ベンゼン環が好き」「なんとか方程式は美しい」みたいなことを言ってるわけではない。

少なくとも最近の学生にヒアリングする限り、上記のように、関心の切り口はかなり千差万別なのである。もはや、無機化学と有機化学が争うとかそういう次元ではない。

この千差万別な関心事に対し、社会は充分なポストを用意できていない。ライフサイエンス部門に人気が集中すればあぶれる人も出てくる、それくらいでは済まず、そもそもそんな学問をやってるように見せかけてやってない、なんてこともある。さらに言えば、技術の実用化、技術の事業化は専門家がいない。だいたいにおいて部門もない。あってもおじいちゃんの左遷ルームだったりする。

技術でなくプロセスに関心がある人はもっとしんどく、事業化とか技術共創というのはある程度歳の行ったやつがやることであるとされている。これをあなたも人事も上司も根気強く覚えていればいいのだが、だいたい忘れられて、ずっとおなじ開発をちまちま続けることになる。

このご時世、不満や希望は出し続けた方がいい。その方が信頼関係が増して評価が上がることさえある。その通りだ。しかし、それは上司があなたの不満を解決可能である場合だ。無理な要求を出し続けると次第に査定は下がりあたりも強くなってくる。言われる上司側も、自分は部下の要望に応えられない無能だと思いたくないのだ。部下の要望はスキルに見合わない荒唐無稽なわがままだということにすると、上司の精神の安定が図られる。人とはそういうものである。

実際、こういう場合のあなたの要求は上司の権力の範囲外なので、上司からするとまさにスキルに見合わないわがままなのだが、この上司が、自分のキャパと違う人物が存在することを、想像判断できる人物かどうかで、明暗が分かれる。

さて、冒頭に申し上げたこれだ。

最近、型がない「事業を作る」、逆に型がありすぎる「決まった管理をする」ような仕事には、大卒である必要がないと感じている。
(社会を渡るのに肩書きが要る、教養や人脈があると有利といった論点は別。これらの仕事の「純粋な遂行」に高度な学問は不要という意味)
大卒は本来、習得に時間がかかる学問を携えて社会に還元されていく。大学で研究を続けることもあれば企業内の専門職を勤めたりもする。

我々理系は好みの糸(専攻)を選び糸を紡ぐ専門職となった。しかしこれを必要とするポストが社会では非常に少ない。なので、好みの糸とはズレるが少しは知識が役に立つ、程度の仕事をやらされたりする。まだ役に立つならいいが、ほぼ役に立たないケースもある。この場合は、大学卒なら新しく知識を得てうまいこと仕事進めるのはうまいでしょ、というケイパビリティに期待している。

ここらへんでお分かりだろうか、生涯、好みの糸を紡ぎ続けることはほとんどの人はできない。

かくして、さして熱中できない仕事をしながら、企業という金脈から別の糸を探し出そうとするもの(30代以上に多い、だいたいうまくいかず子供と趣味に落ち着く)、熱中できる仕事を企業の外に求めるもの(20代に多い、NPOぽい方に行くので自己実現欲求が満たされてないと察せられる)、などが現れる。

研究職を抱えられるような大企業は、まだ油断している。自分の会社に所属していることが、従業員の満足になると。

しかし違うのだ、我々理系は色とりどりの糸を選んできている。ある20代は、高校生の頃から、本当にある高分子で世界が変えられると思っていたのだ。大学院卒業後に選んだ会社では、そんな研究はやっいるといいつつ、実はやってなかったのだが。

もはや自分は研究者ではないという人たち。

彼らは、自分が愛した研究には自分は選ばれない。それで食っていくことはできない。そういう挫折感と妥協を心に生きている。

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