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[玉造温泉街 再生秘話①] 2007年 さびれた玉造温泉


2007年4月 さびれてしまった玉造温泉のまち

2007年(平成19年)
世の中は第一次安倍政権で安倍首相が突然の辞任が大きなニュースでした。

そんな2007年 当時の玉造温泉は一体どんな様子だったのでしょうか?

もう誰もが忘れつつある街の様子を思い出しながら書いております。


そう…こんな感じの街でした

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言葉だけでは共感が少ないかな…と思うので懐かしい画像を見てください。

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 ▲温泉街の中心部。道路もツギハギだらけでした。


  

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 ▲廃業して何年も放置された空き店舗がたくさんありました。
  (薄気味悪かったー)


姫神広場 (6)

 ▲温泉街には こんなさびれた空地もありました。


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 ▲こんな道路を車が通っている危ない温泉街でした。

 ※行政資料として残っていた貴重な画像です。


そして、悲しいかな…どの写真にもお客様の姿はありません。


「お客様、早く到着しないでください」

2000年~2007年まで角さんは老舗旅館で働いていました。

フロントでお客様のお出迎えもやっていました。 

夕方17時を回るころには、お客様が次々と到着されます。

玄関でお出迎えの仕事はとても楽しかった記憶があります。


ところが…

時々ですがこんなお客様がおられました。


ちょっと早く着いちゃったお客様です。

稀に15時くらいに旅館に到着しちゃうお客様
※今では珍しくないのですが当時は珍しかったのです。

チェックインの署名などが終わり、お客様も不安そうな顔で聞いてきます。

「すみません…ちょっと早く着きすぎたんですが…この辺りでなにか見るとこありますか?」


お客様…

申し訳ありません。


(当時の)玉造温泉の街には何もないのです!

あるのは足湯が2つくらい。

むしろあるのは、廃業して何年も経ったうす気味の悪い空き店舗くらいです。

早く到着したお客様は悪くない。

何も悪くはないのですが、心の中でこう思っておりました。

「お客様。この街には早く来てはいけないのです」


さびれた理由

さて、

そもそもですが

なぜこんなに温泉街がさびれてしまったのでしょうか?

これは視察でよく聞かれます。

ちょっと説明っぽくなりますが書き残します。

※全国の温泉街が似たような理由だったようです。ご参考ください。


さびれた理由…これには色々な要素が複雑に絡んでいたと思います。

※良い悪いとか善悪をハッキリさせたいわけじゃないので、「へぇーそんな時代だったんだね」という中立な気持ちで読み進めていただけたら喜びます。


理由① 昭和から平成初期の旅行のありかた

バス旅行が主流だった頃です

人気の旅行ツアーと言えば…

名所や立ち寄り場所が盛りだくさんのツアーです。

とにかく1泊2日の間にたくさんのところをめぐる!

そんな旅行が好まれる時代でした。

『ツアー行程に立ち寄り先を盛りだくさんにして魅力的な企画にするんだ!』

『そして多くのお客様に選んでいただくんだ!』

これが旅行会社の腕の見せ所でした。


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昭和から平成初期はこんな行程の旅行ツアーが人気でした。
※これが決して悪いわけではありません。当時の旅のあり方だったのです。


その結果

温泉街に滞在する時間が減る ⇒ 温泉街にわざわざ出ない

という状況が生まれました。


人が歩かなくなった温泉街です。

お店は次々に廃業されていきました。


やがて

そんな時代は平成半ばには過ぎ去りました…


個人旅行の時代の到来です。


ゆっくりとした時間を過ごす

温泉街を散策する

自然やそこにしかないものに価値を感じる

そんな旅行が人気となります。


しかし…

玉造温泉街に残されているのは、廃業したお店ばかりです。



 
理由② 旅館によるお客様の囲い込み

昭和の時代のお話です

旅行の楽しみは温泉や料理ばかりじゃありません。

お土産のお買い物や温泉街の居酒屋で2次会も楽しみの一つでした。

旅館で温泉や夕食を楽しんだお客様は、夜の温泉街へ出ていきます。

昭和の頃には、浴衣姿でカランコロンと下駄の音を鳴らす観光客がたくさんおられたと聞いております。 

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▲昭和の玉造温泉街


そこで経営コンサルの頭良い方や経営者の皆さんは思いつきます。

「なにも温泉街にお客様を出さなくても、旅館の中でお金を落としてもらえばもっと儲かるな」と。
※これも当時普通に考えられた経営手法です。

そこで、旅館の中にある土産売店を拡張します。

2次会のスナックも作ります。

カラオケブームがきたらカラオケルームも作り、バーも作り、立ち飲みやら色々つくります。

お客様の立場としてもそのほうが便利です。

外に出なくてもよい… つまり楽で便利なのです。
(便利さが優先される時代でした)


そうです。

時代がそうだったのです。

誰も悪くはありません。


しかし、その結果、皮肉にも温泉街を歩かれるお客様が益々減りました。

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 ▲歩かれる観光客もほぼおられません。
  ※写真の歩いている人は市役所のおっちゃん。


ほかにも色々な理由があったと思います。

全国の温泉地にはこれ以外にもそれぞれの理由があったことでしょう。


ですが

廃業

※この事態を逃れた温泉地もありますので誤解のないようお願いいたします。


転職を決意させた仲間の言葉

観光客が歩かない街となってしまった玉造温泉。

温泉街の土産品店や飲食店は次々と廃業されました。


そして、いよいよです。


旅館組合に加盟している15軒の旅館にも「倒産のうわさ」が流れはじめました。


角さんが働いていたホテルは当時、玉造温泉の中では宿泊数の多い旅館でした。

それでも未来への不安は確かに感じておりました。


そんな中、周りの旅館にも同じような役職の仲間が3人おりました。

しょっちゅう集まっては、集客作戦を考えたり共同でツアー企画をしたものです。

ありがたい同志です。


そんな仲間との会話で強烈に覚えているのは

『玉造温泉でお客様を呼べないとジリ貧だ。いつか我々旅館も全滅する…』

という言葉でした。


玉造温泉でお客様を呼ぶ… 

もう旅館単体で頑張っていても どうにもならない状況だ。

仲間たちも判っていたのです。

その言葉から角さんはある決意をして当時の旅館の社長に直訴をすることを決意します。


つづく

最後までご覧いただきありがとうございます!

第2話では、温泉街の再生にむけて立ち上がった人たちと、その覚悟をお伝えいたします。

第2話 覚悟を決めた人たち
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