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エレベーターでピンク・レディーと鉢合わせた父

私の父、81歳。

カラオケの十八番は「倖せはここに」(※1)と「嵐を呼ぶ男」。
未だに毎日、晩酌しているらしい。ビール、焼酎、日本酒、ワイン、オールオーケイ。
じじいにしては足が長く、姿勢も良い。
夜中足が攣ったり、物忘れが進んだり、身体のあちこちが痛くなってきてはいるようだが元気に仕事も続けている。

彼の仕事は、仕立て屋。テーラーである。お客様の寸法を取り、仮縫いまでを行い、本縫いはお抱えの職人さんに依頼している。時代と共にオーダーメイドの洋服をつくる人が減っていき、厳しい時を経ながらもテーラーで育ててくれた。おかげで今でも「背広」や「チョッキ」という言葉がすっと出てしまい笑われることがある。とはいえ背広って響き、私は好きだ。

父はテーラーを祖父から継いだ形になるが、私たちには「継がなくていい、大変な仕事だしこの先商売にならないから」と口癖のように言っていた。私と弟は父の言う通り継ぐことはせず、アパレル業界とも離れた仕事をしている。この先、父が仕事ができなくなったら、戦前からつづく下町のテーラーは店仕舞いとなる。

酔って父が話す、昔の話。私の記憶に残っているものの一つを書き記しておきたい。

まだ日テレが麹町にあった頃の話だ。当時、麹町に住んでいた父の友人のツテで芸能人の衣装をつくっていた時期があったらしい。TVのドラマや番組で使いたい衣装が無い時に、父に依頼がきて先方の希望通りの洋服を一からつくるというものだ。3年半ほど続けたそうだが、芸能人の都合に合わせなければならないため、待ち時間が長かったり、打ち合わせ時間が夜中になったりと割に合わなくなり辞めたらしい。

その3年半の間、衣装づくりのため父はよく日テレに足を運ぶ。紳士服屋だったので、接するのは男性芸能人ばかりだったが、ある時エレベーターで出くわす。父がピンク・レディーのミーちゃんに出くわす(※2)。その瞬間、しびれるほどの感覚を味わった父。時間にしてみればほんの10秒ほどだったかもしれないが、狭い箱の中に、確かに一緒に立っていた。

父にとって堪らないこの話、子どもの頃何度も聞いたが、その時は興味がなかったので聞き流していた。だから今、ちゃんと聞きたい。

父や母が体感した楽しかったこと、忘れられない思い出を聞きたい。出来れば子どもは関係しない、父、母が一人の人間として体感した話がいい。



※1 作詞・作曲 大橋節夫。石原裕次郎や五木ひろしがカバーしたことでも知られる曲
※2 この時はピンク・レディーは解散し、ソロ活動を行っている頃


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