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過去世を手放す

長年不明だった、自分という名の生き物の「取り扱い説明書」がやっと少し紐解けたような、こんなダメな自分にでも、少しだけ愛おしさを感じられるような、そんな温かい体験をしました。


幼い頃からどこか自分は、周りの人とはちょっと違う特別な存在だと思って生きてきました。

どちらかといえば過保護に育てられたタイプではありますが、夏なのに浴衣の下には白タイツを履くとか、友達の家に泊まりに行ったらダメとか、添加物の入った練るタイプのお菓子は食べちゃダメとか、アニメの〇〇は見たらダメとか…

今思うと「ただのしつけや家庭の事情だったかも?」でしかないのですが、幼なながらに母の教えが世界で一番正しいと当時は思っていたので、それに忠実に従う自分はなんて良い子なんだろう、あの子もこの子もみんな間違ってる、私が一番偉くて優れてると、どこか一歩も二歩も離れて他人を見下すような、そんな日々を思い出しました。

一方で、何か気に食わない事があれば、「思い通りにいかない自分は不幸なんだ」と感じる事も多く、自分はこんなに可哀想で惨めな存在なんだから、みんな私の言う通りにしてくれて当然なのに、何で誰も分かってくれないの?という思いも。

そんな時はとにかく周囲の視線を自分に釘付けにしたくて、友達の前でわざと男言葉を使ってカッコイイと思われようとしてみたり、長縄を人より目立つように飛んでみたり、好きな子の前で妙に騒いでみたり、普通でしかない話をあたかも普通以上に見せようと、まるでオオカミ少年のような大袈裟な振る舞いっぷりで、スポットライトを浴び続けようとしてきました。

しかし、小学校時代とある日の朝礼で、隣の男子が手のカサブタを剥がして血を流してるのを見て気持ちが悪くなり、倒れてしまったことをきっかけにそれがトラウマとなって、私1人教室待機の一定期間を過した時期を思い出して、もしかしたらこうして身体への変化が起き始めた頃から、時として望まない注目を浴びてしまう自分に対する嫌悪感を徐々に抱き初めて、人より特別でありたい気持ちとのギャップに戸惑うようになったのかも、と。

「一体どっちが本当のあたしなんだろうか―」

「本当は注目を浴びたいのかそうじゃないのか―」

決して意図せずとも不意にドカンと起きる罰のような、授業中のおもらし事件に始まる「みんなの前で恥をかく」経験は私の人生において、少しでも自分を省みる為の出来事だったのかも知れませんが、思春期の私にとってはそうもいかず…

とにかく1秒でも早く今の自分を消し、人々の記憶から抹消してしまわねば。そして、何事も無かった頃の自分に戻るんだと、その度に必死に根拠のない自信を武器に身につけては、なんとか平静を装って生きて来てしまったように思います。

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出生時のホロスコープより、過去世での自分は、「王室お抱えの祈祷師」のような存在であったようです。

占い師?魔術師?なんでも良いのですが、宇宙の真理を探求し、見えない世界と繋がり、自然界からメッセージを受け取って、絶対的な発言力で世に発信していくという、そのうち王様さえも一目置いてしまうような、民も国をも牛耳ってしまうような、そんな影の権力者であり支配者。

世のため人の為ではなく、自分の私利私欲の為に力を好き放題使ったのでしょう。私にとって周囲の人間は、「私のために利用するもの」でしかなく、「自分は何もしなくても生きていられる存在なんだ」とあぐらをかいては、その思いには今でもずっとしがみついていて、中々自分を変えようとする事もありませんでした。過去世では、先へ前へと未来ばかりを見る傾向にもあったようで、自分の足元には一切目を向けず、後先省みず突っ走ってしまった結果の大失脚だったようです。「血祭りにあげられる」も今ある感情のひとつですが、全くもってその通りなのでしょう。そうして人々の前からあっさり姿を消すこととなったのかも知れません。

「一度失ったものはもう二度と戻ってこない」

「二度と元の自分には戻れない」

過去の私は、こうしてガッツリ傷ついたまま、本当にしたかったこともできず、後悔と罪悪感を抱いたまま命を終えたのかもしれません。

この感情は、今世の人生経験を振り返っても長年終わる事がなく、「この苦しみを一生味わい続けるしかない、一度ついた傷は死ぬまで治ることはない」とどこか諦めて生きてきたところもあったのですが…

過去世の自分に触れた今、今世の私が目指すところって、「一度失った時間には二度と戻れない」という新真実を受け入れる事なんじゃないかって。それが出来て初めて過去の自分から解放されて、新しい人生を歩み出せるんじゃないかって。そして、私が今世ずっと「諦める」しかなかった、本当にやりたかったことに、やっと自らの意思で手を伸ばせるようになるんじゃないかって―

この歳になっても、やたらと年功序列に頼るというか、自分より歳下で経歴が上回る人への抵抗があったり、人と付き合う上では常に自分が上か下かでしか距離間を保つ方法がわからない事が多かったのですが、もしかしたらこれも過去世の問題を引きずっていたのかもしれない。そして、そんな自分が薄々感じてきたのは、「人と対等でありたい」「同じ立ち位置で物事をみてみたい」「好きな人と一緒にいたい」という事。

過去世の私、散々好き放題やってたようですが、果たしてそれで満足だったんだろうか、もしかしたら本当は寂しくてしょうがなかったんじゃないか……いつもひとりで上から眺めるだけで、自分の隣に一緒にいてくれる人、誰もいなかったんじゃないかなって。

誰かと「一緒にいる」ということは、今の私にとってまずは「本心を伝え合う」ということ。その本心を見つけるため、本心と繋がる自分になるために、日々この先も自分と感情との長い長い向き合いは続くのです。

元に戻れない自分の恐怖や苦しみはまだまだあり、とても一筋縄ではいきませんが、「やったね…やっとこれで、一緒にいられる(かもしれない)ね」ってとこで、一旦は落ち着こうと思います。


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