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「意味の無い人生」が最も理想的で、自由に選べる選択肢なこと。

全ての物事が、無意味に感じる日もある。反対に、全ての物事が奇跡に映えたりもする。

そのくらい、この世の中は曖昧に出来ていて。偶然起こった現象に、「幻想的だ」なんて解釈が出来てしまい。「必然的だ」との解釈できてしまうくらい。解釈の仕方は、自分たちの判断に委ねられていて。

「生きる意味なんて、何もないよ」と悲観している君の姿は、その一例に過ぎない。「生きる意味は有る」のだと解釈して仕舞えば、意味づけ出来てしまうし。無いと思えば、全て無意味な物事に感じるよう、出来てしまう。

ここで人生に「使命や、意味がある」そう定義付けて。その方が、きっと僕らは、意味ある作業には取り掛かれるが。無意味な作業に取り掛かることに、躊躇してしまうのだと思う。

意味がない方が、僕らにとって「意味の込められた使命」だったのかもしれないと思う。僕らは、意味がないモノに選択を迫られて、解釈をして意味づけをする。

初めから決まっている、意味の有る事象なんてものはなくて。初めから、決められた運命なんてものはなくて。何を選んでも正解で、何を選んでも不正解の中で生かされている。

「お金を持つ事が正解」そう思い込んでいる、そんな人もいたし。「家族を築くのが正解」だと思い込んでいる、そんな人もいた。

こうして、個々が違った"意味なき事"に、自分の正しさを当てはめること自体が、"意味付けできる自由"だってことで。ずっと何をしてもいい中で、好きな方に、赴くままに進んでいけるのだと思う。

決まってもいない、決められてもいない。でも君は、「全てに価値を感じない」のだと決めた。君は、自ら失望を選択する人であって、そうして一生の中での、希望さえも放棄した人物であると。

何を選ぶも自由なんだよ。意味の無い事に、膨大で有限な時間を、投資する事さえ可能な世界。だから僕らは、ずっと自由の中で生かされていながら、自由だからこそ何を選ぶのか悩んでる。

「なくて良いんだよ、絶対的な意味なんて。」一つさえ、有りはしなくてもいい。もしも一人一人に、一つだけ。使命が課せられたのなら。適当に生きてる僕の人生には「使命を果たせ」とか、誰かから指摘されて、怒られているところだろう。

僕が、毎日同じようにダラダラと過ごす日々に、有り難みを感じながら生きていたらダメだなんて。そんな意味やルールすら、一つも存在してなくて。

責務を背負いたがる君に、意味が無い事実に失望している君は。素晴らしい自由の中で、自ら失望を選んで生きているのだと。

例えば、「人の役に立つ」だとか「誰かに貢献したい」だとか、「誰かに感謝されたい」だとか。それらは社会に求められている理想論であって。そんな事が出来なかったとしても、悲観することもない。

むしろ、助けてもらう側でさえ、良いんじゃないかと思える。「他人を助けろ」だなんて、他人から言われてしまうなら、それは他人のエゴだ。もちろん、助けるな、とも言っていない。

誰かに指示されながら生きる事に、希望を感じているなら。右向け右と指示されたから、右を向くことで、人生楽しくなるのだろうか。

こんな世界で、どこ向いても良いし、向かなくても良いし。どのように解釈しても良くて、どんなふうに解釈しなくてもよい。

「無意味な人生」に希望を感じてない君は、"最も無意味な場所"に帰りたがるかもしれない。本当に君は、自分に意味が欲しいのか、欲しくないのか。君の意見には食い違いがあって、分からない。

自分には意味がないと失望して、完全に自身の意味を無くした姿に成ることが、君の望んだ姿では無いのだと思うし。

「意味が欲しい」と思うのなら、自分から作り出すことが、君にとっての正解なのだと思うけど。「意味がない」と解釈してしまっている時点で、君、自身が今、意味ある作業を、意味の無い作業だと解釈して、変換してるから元も子もなくて。

そして、人生には意味が有る、意味が無い、じゃなくて。つまり、その根源には、そんな二つの選択、どちらかも選べてしまえる自由さがあって。

使命も、意味もエゴだとは思う。そんなもの無くてさえも、生きていけるのが現実で。自分が、必要とされている実感を味わうための口実として、意味だとか、使命だとか言い出して探す。

そして他人に告げられた意味なんて、他人任せな人生でしかなくて。意味が無かったからこそ、自分で意味を付け足せる、そんな自由に判断を委ねられた世界だから。

それが自分らしく生きるだとか、
自分の価値だとかに繋がるんだろう。

適当でイイ。

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