「生きづらさ」に伴奏するということは簡単ではないが。
誰にでも「生きづらい」と思ったことの経験の一つや二つあると思います。
あまり、今まで書いてこなかったのですが、私は今福祉サービスの中にある訓練等給付に位置付けられている”自立訓練(生活訓練)”の事業を行っている施設で生活支援員をしています。
病院時代と比べると、出逢う人の数は少なくなりましたが、かわりに一人一人の生活やその中での悩み、課題をシェアしてもらいながら、一定期間一緒に考えることができるチャンスをもらっています。
その中で私がいつも発見することを心掛けているのが、
『この方にとって何が日常の生活を生きづらくするのだろうか?日常の生活を脅かすのだろうか?』
という視点です。
生活訓練では、生活に関しての様々なスキルや考え方を利用者さんに身につけてもらい、今後自立した生活を送りたいという目標を応援するサービスです。
生きづらくする要因に、もちろん病気の症状との付き合いというものがあると思います。
ですが、「生きづらさ」というのは病気の有無に限らず、生きている人の大半は人生生きていればどこかの時期には体験するものだと思うのです。
発達障害などの診断受けている方にとっては、病気ではありませんが、元々の備わっている特性のようなものが、生きている人間の中で少数派なばかりに生きづらさを感じるというところもあると思います。
年代、性別による生きづらさ、都心部や田舎といった違いによる生きづらさ。
「生きづらさ」ということをキーワードにすることによって、一人の人に対して幅広く発見できることがあるのではないかと思っています。
生活訓練というサービスを通じると、病気そのものだけではなく、病気になった影響の一つもして
・本来経験するはずだっただろう社会生活におけること
・学ぶ機会を得られただろうと思うことが失われたことによる二次的な生活障害も抱えていることに本当に体験します。
それはデイケアや病院ケースワーカーの立場だった時にも味わっていたことではありますが、その格闘されている様をもう少し側で、味わうような感覚です。
私たち支援者も結局は人間なので、時に感情に流されたりして適切とは言い難い対応をしてしまうことがあります。
それは、一見相手に対して向いてるようで、実際は支援者としての自分自身の無力さへの怒りだったり悔しさだったりします。
何とかできると思っていた時点で傲慢な気もしています。
支援のスタンスとして、
『自分たちにできることはたかが知れており最終的には本人自身が自ら立つか立たないかであったり、同じ経験をしている人達の一言には叶わない』
と、良い意味で受け入れて支援するということを助言されたこともあります。
「伴奏する」って奥が深いです。
私たちソーシャルワーカーは、よく伴奏型の支援をする人と呼ばれたりします。
美しい言葉だけど、難しい。
でもそれでいい。
考え続けること、そしてこうと思ったこと、視点からやってみること。振り返ること。
相手に、自分の関わりがどんな風に現れているのか聞いてみること。
そういう中で、伴奏できている、できていないを発見し続けていく姿勢が大切だと思っています。
何と伴奏していくか?
それは、もしかしたら各ソーシャルワーカーによって多少違うかもしれませんが。
私はソーシャルワーカーとして人々、そして自分自身の生きづらさと伴奏していけるワーカーでありたい。
そう思って今日もこの仕事に関われることを感謝して、自分達のサービスを利用してくれる利用者さんに感謝をして、giveされたものを takeできるように精進していきたい。
この気持ちがあるうちは、きっとソーシャルワーカーを続けていけるのかなと思っています。
今日は呟きのような、宣言のようなまとまらない記事となってしまいましたがお読みいただきありがとうございます。
この辺の何ともいつも思考がまとまらないのが、私の生きづらさでもあります苦笑
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