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2011

相方の再就職先が決まって、入社前に受けた健康診断で食道にポリープが見つかった。
経過観察、ということで半年後に胃カメラを飲んだら今度は「総合病院を紹介するので精密検査を受けるように」と言われた。
検査結果は夫婦で聞きに来るように言われた。
平成22年の11月22日、良い夫婦の日。
がんだった。
雨の中傘をさして2人で家まで歩いた。
なぜ車で行かなかったのか. . .相方はわかっていたのかもしれない。

翌平成23年に何があったか。
東日本大震災と福島第1原子力発電所事故。
関東は震災直後は物資がなくなったりガソリンスタンドに行列ができたりしていた。
結局津波は来なかったけど、湘南地域では余震が来るたびに津波警報が鳴っていた。
ほどなく計画停電が始まり、輪番の時は容赦なく電気が止まり、そして突然復活するのが1~2か月ほど続いただろうか。
当時相方は入退院を繰り返しながら放射線治療と抗がん剤治療を受けていた。
病院などの公共施設は優先的に電気が賄われるとはされていたけど、入院中、治療中にもし停電になったらと思うと気が気じゃなかった。
フルタイムの仕事もしていたので夕方買い物に行っても棚に物がないときもあった。
やっと手に入れた総菜を皿に盛っていると部屋の電気が消えてしまい、びっくりしたこどもが皿を落とし、破片とおかずがごっちゃになってしまって、何も食べれなくなり、大きな声でこどもを叱ってしまったこともある。
(東北の皆さんのほうが大変だから)(みんながまんしてるんだから)そう自分を抑えていたけれど、(なんで自分ばっかり)という追い詰められた気持ちではあったのだろうと思う。

放射線治療が効果があったのか、がんはかなり小さくなった。
夏になることには相方の体調もとても良くなり、転職したばかりだったのに休職に応えてくれた会社への復帰に向けて話し合いも始めていた。
あたしも震災復興応援事業のボランティアをやるほど少し心に余裕も出てきた。
(がんも今では必ず死んでしまう病気じゃない。働きながら治療している人もたくさんいる。相方も末っ子が成人するまでは頑張りたいって言ってるんだし、あたしも暗い顔ばかりしてないでちゃんと相方を支えるんだ。)
10月から少しずつ復職することになり、その前に、と9月に心配しているであろう広島の両親に会いに行き、本人の口から症状を説明することもできた。(でも結局これが最後の帰省となり、彼が両親と会って話す最後の機会となった。)

「どうもお腹が痛むんだ。」と相方が言うようになったのは復職予定直前の頃だ。
あたしは転移を恐れて病院に精密検査をお願いしたが、なぜか「がんは小さくなっている。転移しているはずはない。今は無駄に検査をしても体力を削るだけだ。」と言われるだけであった。
そうする間にも相方は食欲がなくなり、腹水がたまって妊婦のようなおなかになっていった。
(もうこの病院はだめだ。信用できない。転院しよう。)
あたしは2,3別の病院も当たってみたが、相方はその間にもどんどん衰弱していった。
あたしは実家に帰って実母に頭を下げて金も借りた。
けれどもある日仕事帰りに相方を見舞っていると看護師長に帰りにナースステーションに寄るように言われた。
ナースステーションには主治医が待ち構えており、「残念ですが余命三か月です。覚悟なさってください。」と告げられた。


平成23年11月22日、また「いい夫婦の日」だった。
「初見では1年も無理かなと言ってたんです。ご主人はよく頑張られました。」
「ご家族の皆さんにも伝えて最後まで支えて差し上げてください。」
「お家で看取られますか?」
看護師長がいろいろと話してくるが、何を言ってるのかわからなかった。
(うるさい。うるさい。うるさい!)

あたしはだれにも言えなかった。
末っ子はまだ14歳になったばかりだったし、高校3年生の娘は大学受験を控えていた。
おにいちゃんは兵庫の高校を卒業した後も関西の大学に進学したがっていたけれど、ちょうど進路決定のタイミングが相方がリストラされた時だったので、(遠方に進学されても仕送りが続けられるかわからない。申し訳ないが関東の家から通えるところに進学してほしい。)とお願いして神奈川県の大学に進んでもらった経緯があった。
彼は大学生になってからアルバイト漬けでほとんど家にいなかった。
仕事終わりに毎日お見舞いに行く相方にも、どう伝えればよいのかわからなかった。
1週間ほど毎日泣きながら犬に相談した。
とうとう耐えられなくなっておにいちゃんに二人きりだった時に話したときはもう12月になっていたと思う。

まだあたしたちはあきらめなかった - というよりは、信じたくなかった。
別の病院に診察予約を入れたりしていた。
下の2人には結局最後まで何も伝えなかった。
もう観念して、心静かに相方が最後を迎えられるように準備をすればよかったのだろうか?
思い出作りをすればよかったのだろうか?
もっといろんな人に話して、相方に会いに来てもらえばよかったのだろうか?
死はだれにでも平等に訪れる。
でも、そのタイミングはだれも決められない。
人は親を選ぶことができないように、死を迎えるときにそばにいる人を選ぶこともできないんじゃないだろうか。
あたしはなにもできなかった。
あたしは身近な人の死を受け入れ、最後を支えるにはあまりにも器が小さく、経済力も社会的信用もない、愚鈍な人間だった。
相方が心安らかにこどもたちの未来をあたしに託していったとはとても思えない。

平成23年12月18日、日曜日に相方は朝から激しい痛みに襲われ、たくさんたくさん鎮痛剤を投入され、意識が混濁し始めた。
夕方落ち着いたものの、予断を許さないということであたしは病室に泊まり込むことになった。
9時に消灯ということで「おやすみ」と手を握ったけど、反応はなかった。
しばらくウトウトしていると急に看護師さんたちがバタバタと病室に飛び込んできた。
そのあとのことはよくわからない。
とにかくあたしは病室の隅に追いやられ、ただボーっと立ち働く人々を見ていた。
「ご臨終です。」

こどもたちに急いで病院に来てもらった。
いろんな人に連絡したような気もするし、おにいちゃんがやってくれたのかもしれないし、あまり覚えていない。
とにかくそうこうしているうちに「とにかく急いで葬儀社を決めろ」と言われて、よく考えもせずにいつも最寄り駅を降りてすぐに見えていた葬儀社を選び、担当の人が病院に来るとあとはその人が全部仕切ってくれた。
病院の地下の駐車場から葬儀社の車に乗って遺体となった相方と外に出た。
(こんなことになるなんて. . .なんでこんなことに. . .)
おにいちゃんの運転で娘と末っ子を乗せた我が家の車が後に続く。
「しっかりした良い息子さんですね。」
「ありがとうございます。」
葬儀社の控室でやっと家族だけになった。
「みんな、ごめん。」
「母ちゃん?」
「あんたらの父親を守れんかった。ほんま、ごめんなさい。」

帰ったら犬が鳴きもせずに待ってくれていた。
遠く広島からたくさんの高齢者が来なければならなかったので葬式は3日後の朝になった。
12月22日、奇遇にも別の病院に診療予約を入れていた日だった。
葬儀にどれだけの人を呼べばよかったのか、今でも不安だ。
相方に最後の別れをしたかった人がほかにもいたのではなかったか、そう思うと本当に申し訳ない。
でも、あたしは彼のPCのパスワードがわからなかったので住所録を開けられなかったんだ。
親戚はわかるし、携帯電話に入っていた最近連絡した人たちはなんとかなったので、あとは元の会社の後輩の人にお願いした分で全部である。
急なことではあったし、2回転職したわけだからそんなに来ないだろうと思っていたけど、たくさんの方が来てくださった。
たくさんの知らない人が、相方のために、泣いてくれていた。
何をしゃべったか覚えていないが、あたしの喪主挨拶の最中も号泣なさっている人がいた。

葬儀が終わるとすぐ当時の天皇誕生日の連休で、明けると年末の平日は2日しかなく、ものすごく忙しくできる限りの事務仕事をした記憶がある。
結局故人のさまざまな事務手続きはいろいろ終わるのに3~4か月くらいかかったと思う。
「忙しいと思いますけどね、車は運転しない方がいいですよ。四十九日くらいまではどうしてもって以外は運転控えてください。」
葬儀社の担当の人にくぎを刺されていたはずなのに、物損事故を起こしてしまって廃車手続きの手間まで増やしてしまった。
バタバタのその年の年末、こどもらと揃ってスーパー銭湯に行った。
お風呂に入った後、休憩室でこどもたちに誓った。
「母ちゃん、がんばるから。
これから色々苦労もかけるやろうし、我慢してもらうこともあるかもしれんけど、頼りにならんやろうけど、とにかくあんたらが出ていくまでお母ちゃんはあんたらをおいていったりはせんから。
母ちゃん、がんばるから!」
めそめそしない、倒れたりしない、絶対死なない。
(死んだ相方に甘えたらあかん。)
あたしはその日以降結婚指輪を外した。


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