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鬼滅の刃を読んで、鬼になってしまった人達に同情した話

今更ながら鬼滅の刃を読んだので思いを残します。

鬼滅の刃にはたくさんの人物が登場しました。

それぞれに事情があります。

鬼狩りになった事情も鬼になった事情もです。

僕は特に鬼になった事情が深く描かれていることが印象に残りました。

敵である鬼は勧善懲悪の対象として同情の余地のない憎むべき相手でも良いはずなのに、あえて同情を誘うような描き方がしてあるのです。

特に猗窩座や妓夫太郎は顕著です。
不幸な境遇を持ち、やっと掴んだ幸せも自分の力のなさゆえにこぼれ落ちていく中で、力を求めるのも理解ができます。

また、半天狗や童磨、無惨でさえも同情の余地があると思います。
もちろん、たくさんの人の人生を奪う行為自体は許されるものではありません。ですが、それに至る性格や思考プロセスは持って生まれてきてしまったものなのです。
皆が皆、炭治郎のような崇高な心を持っていれば良いですが、そうはなりません。
そう生まれてきてしまったことは仕方ないと僕は思うのです。

僕はなんだか可哀想に思うのです。
鬼になった彼らも何かが違えば鬼にならなくて済んだかもしれない。
自分自身の人生だけでなく、他人の人生を思いやれる優しさや強さがあれば鬼にならずに済んだかもしれない。

では、どうなっていたら他人の人生を思いやれる優しさや強さを鬼たちは鬼になる前に身に着けることができたのでしょうか。

それを授けてくれる人物に出会う?痛い目を見て優しさや強さが必要であるという気づきを得る?持って生まれる?

結局のところ運のような気がします。
優しさや強さに出会える人は出会えるし、出会えない人は出会えない。
また優しさや強さを自分の中に保つ器を持てるかや、それを守り抜けるかも人次第だと思います。

人間は自分の意志で自分の根本を変革させ、より優しくより強くなることはできるのでしょうか。

少なくとも今の自分の中に少しでもより優しくより強くなりたいという気持ちがあるのであれば、幸運なことだと思うので大事にして育んであげたいですね。

ではまた。

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