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28歳女が休職することになった話


年が明け、2024年のはじまり
よ〜し、今年も良い年にしてやるぞ〜
と意気込んでいた矢先、
私は休職することになった。

今ここで私という人間がひとり
生きるために戦っているよという記録を、
ただそのままに、残してみようと思う。



1. 症状のはじまりは突然に

新卒から勤める、入社4年目の会社で働く私、28歳。
この度の診断名は、適応障害。
症状のはじまりは2023年9月に遡る。

お盆明け、『奥多摩旅行でマイナスイオン吸いまくってリフレッシュできたぞ〜〜』の爽やかな気持ちで職場に戻った私だったが、なんだか頭痛と疲労感がすごい。

心と思考にもモヤがかかったようで、仕事に対して不安で落ち着かないという精神面の症状もあった。

私はメンタルダウンの気配を察すると、紙に書いて思考を整理し解決策を編み出す習慣があるので、すぐさまノートとペンを手に取り書き書き書き書きに書き…

辿り着いたのは『上司が怖い』という感情

意外だった。そんなことで自分が悩んでいたのか、と。確かにちょっと言い方がキツくて威圧的で好戦的でこだわりが強くて融通が利かないけど、パワハラって程ではないし…

自分を誤魔化したり、具体的な対策を考え意識したりしたものの、それからすぐに会社に行けなくなった。

在宅可能な職種なので、家で仕事はできた。ただ、頭がうまく回らず通常の3倍くらい作業に時間がかかる。集中力もミジンコだったので、シェアオフィスやカフェなど作業場所を転々として働く生活。業務量の調整もお願いし、なんとか凌いでいた。

2. もう無理だ、医療の力を借りよう

ところが症状は良くならないどころか悪化。10月には眠れない、食べられない、常に頭がぼーっとする、時折り絶望感に苛まれる、まで進んでしまった。彼には「手首が細すぎる…折れちゃう…」と心配され、久々に会う同期には「なんか、げっそりした...?」と言われる始末。

そんなある日、仕事中に涙が止まらなくなり、これはもう全力で助けを求めるべきだと判断し、有給をとって心療内科を受診した。産業医面談も申し込んだがこちらは2週間後、使えねぇ…

心療内科での診断結果は適応障害。休職を勧めるレベルですと言われた。ところがこの時の私は休職したくなかった (後に計画中の転職活動において不利になるのが嫌だった) ため、休みはせずに薬で症状を抑えていく方針で治療を開始した。

薬の効果は、飲み始めてすぐに現れた。飲んだ翌朝、これまで頭の中を勝手に飛び交って思考していた言葉たちが消失し、軽くて静かな朝がそこにはあった。なんなんじゃこりゃ状態、地球じゃない世界に転生した?と思うほどの違和感、目で見たものがそのまま脳みそに入ってくる新鮮さ、あれは面白かった。

仕事を始めてみると、昨日まであった不安感や焦燥感もほとんどなく、なーんだ、薬を飲めば良かったのか、簡単じゃん、の気持ち。睡眠と食事も、薬のおかげで通常運転に戻り、失った体重3キロも元に戻った。

3. ゆっくりとゆっくりと、回復傾向へ

メンタルダウンからの復帰が、幾重もの上下の波を経て気が付いたら戻っていた、というものであることを心得ていた私は、薬でちょっと良くなったからといって油断せずに過ごしていた。

実際、それからも何度も涙が止まらず働けない日があったし、薬の効果は徐々に薄れて不安感と焦燥感は戻ってきたし、思考が回らない、頭が重たい感じは一向に取れなかった。

だがしかし、もう他に頼れるところはない、あとは自力で回復せねば、と少々の焦りと回復への向上心を渦巻かせていた私は、はりきって栄養と睡眠を摂り、週末ははりきってリフレッシュをするようにした。(今思えば、はりきっちゃダメ。)

薬のせいもあってか、11月はとにかく眠くてたくさん寝ていた。体調に合わせて薬の量を調整していったため、心身の調子は薬にも揺さぶられて右往左往、up and down、高低差で耳キーンなる日々。

12月は、比較的調子が良かった。朝の散歩とジャーナリングを習慣化して、自律神経を整えることに注力して、自分で環境を変えるために転職活動もした。(今思えば、これが無理として蓄積されたんだと思う。)

4. 仕事始め、どうしてもはじめられない

年末年始のお休みは、温泉地へ旅行したり、彼の家で美味しいものを食べたり、初詣では健康と世界平和をお祈りしたりと、たっぷりとリフレッシュできた、はずだった。

が、仕事始めの日、どうにも布団から起き上がれない。絶望と恐怖で涙が止まらない。やっと起き出してPCを起動するも、もはや感情すら伴わない涙がとめどなく溢れてくる。仕方なく有給をとり、布団に潜り込んで時が過ぎるのを待った。

12月の調子が良かっただけに、悔しくて虚しくてたまらなかった。でも確かに、正月休みの後半は仕事と上司のことが頭から離れずうなされていて、まだ私は全く健やかではなかったのだ。

夕方、暗くなった頃に起き出して、これからのことを考えた。一度休んで回復しないと無理なところまで来ている気がする、だが自分で休む決断をどうしても下せない。私は昔から、休むことが苦手だ。

信頼できる同期と彼に相談し、プロコン表で休む場合と休まざる場合のメリットデメリットを整理し、検討に検討を重ねた。結論、翌日に心療内科の予約を入れていたので、そこで症状を話して有識者の見解を仰ぐことにした。

5. 自分を守れるのは自分だけ

翌日の主治医の見解は「薬を調整して様子を見ましょう」だった。泣いた、帰り道、人目も憚らず泣きに泣き、川のほとりでうずくまって泣いた。正直休めると思っていたので、困ってしまった。今日も働けそうにない、でも有給が残り少ない。

翌日も働けそうになかったので、藁にもすがる思いで社内の有識者を探すと、労務課の保健師さんに繋いでもらえた。彼女は30分近くかけて丁寧に私の状況をヒアリングしてくれた後、「一度休んだ方がいいと思います。休みましょう。」と穏やかな声で言ってくれた。

四ヶ月間、もがいてもがきまくった中で、初めての救いだった。やっと休める、そう思った。正直休むのは怖かったけれど、休む以外の選択肢がないところまで追い詰められてしまっていたし、そこまで追い詰められないと休む選択ができなかった。

文章になると当時の一秒一秒の苦しみや、泣き喚くことしかできないしんどみが現れてこないが、たくさん涙を出しながら悩んだし、判断力は皆無だったし、それでも結局自分を守れるのは自分しかいないという孤独感にやられてしまっていた。

6. あっさりと診断書をゲットし、お休みへ

翌日、かかりつけ医とは別の心療内科を探し、(当日受診できる所を探すのに10件近く電話した自分頑張ったおつかれ)、そこであっさりと診断書を手に入れた。初診料と診断書で7500円もかかった。

正直記憶がぼんやりとしており、診察時に話したことはあまり覚えていないが、先生に休むのが怖いことを目から水を垂れ流しながら伝えた時に、「もう何にも考えずに私の出した紙を会社にばーんと提出しなさい、何にも考えなくて良いから」のようなことを言われて心強かったのは覚えている。

その後、引き継ぎをメールで済ませ、とりあえず1ヶ月の休職期間がスタートした。引き継ぎ中、会社の保健師さんから「引き継ぎなんてしとらんでとっとと休まんかぁぁあ」のような電話が来て、最後には「今は自分を大切にしてくださいね。」と言ってくれた。ビッグラブ。

休職することに対しては、やっと適切な対処をできるという安堵と、正しいのステージから脱落してしまった残念さと、いくつかの楽しみやお金を諦めることになってしまったやるせなさを感じていた。

***

以上が、私が休職することになるまでの戦いのこと。
休職前は、自分と同じ状況の人間たちが残した文章を読み漁っていた。

私の残すものは、私のためにの体ではあるけれど、もしも誰かに届くことがあれば、温かく届いてくれると良い。


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